指きり

ムドガラ将軍との戦いが終わった頃から、だろうか。
…忍人は、余り堅庭に出てこなくなった。
食事の席や軍議の場など、皆が集まる場所での様子はいつもと変わらない。きびきびと歩
き、風早と他愛もない話で笑い合い、柊の言動に眉をしかめる。千尋が、また忍人さんに
叱られちゃった、と首をすくめていたりもする。
堅庭に最近来ないね、と言うと、風に吹かれるには少し寒くなりすぎた、としごくもっと
もなことを言う。問う那岐にしたところで、確かに最近は庭で昼寝をしない。
だから、忍人の行動はとても自然なことで、…これを気にするのは単に那岐の杞憂なのだ。
…たぶん、きっと。

那岐はその日、非礼を承知で、声もかけずに忍人の部屋に入った。
予想に反して、と言うべきか、反していて良かったと思うべきか。忍人は別に、寝台で苦
しそうに横になってはおらず、寝台に腰を掛けてなにやら竹簡を繰っていた。
入ってきた那岐を見て眉をしかめ、用があって入ってくるのはかまわないが、声くらいか
けてくれ、といつもの調子でお小言を言う。
その声もいつも通りだ。
…わかっている、と那岐は自分で自分に答えた。これはただの、僕の杞憂だ。
「…ごめんね」
那岐がへらりと笑うと、忍人は背をただしたまま、深いため息をついた。
「まさか、二ノ姫の部屋にもそんな風にいきなり入っていくんじゃないだろうな」
「こっちに来てからはしたことはないよ」
「…異世界ではしていたのか…」
全く、と仏頂面を作って、忍人は読んでいたらしい竹簡をくるりと巻いた。よく読み込ま
れているらしく、手ずれと年月によって竹が飴色になっている。赤い糸でつづられている
のが少し珍しい。
「…それ、何の竹簡?」
何気なく那岐が聞くと、忍人はほんの一瞬言いよどんだ。
「…既に起こったことが書かれた文書だ」
彼にしてはあいまいな言い方だった。ふうん、と那岐は鼻を鳴らす。
「…見てもいい?」
忍人は少し迷うそぶりを見せた。
「秘密?」
「いや、そういうわけではないが、…読めるか?」
そういってはらりと竹簡を再び開き、彼は那岐の前にその文書を差し出した。
「・・・・・。うわーあ」
那岐が思い切り眉をしかめてそうつぶやくと、忍人は読めたのか?と小首をかしげる。
「ちがう。読めない。…何これ、忍人は読めるの?」
「俺にも読めない。…だが、書いてあることの意味は教えてもらった。…なつかしくて、
たまに開きたくなるんだ」
母の形見だ。静かに言って、忍人は再びきりりと竹簡を巻いた。
「で?」
「…何?」
「何か用があってきたんだろう?」
「…ああ、別に、用というか、柊の愚痴をこぼす相手を探してただけ」
「柊の愚痴?」
「そう。座ってもいい?」
聞いておいて、忍人の返事を聞く前に、ぽんと忍人の傍らに腰掛ける。忍人は笑って、少
し場所を空けてやった。
「柊ってさあ、昔からああいう秘密主義なわけ?」
「…秘密主義?」
「なんていうか、…自分はいろいろ知ってますけど教えませんよ、みたいな雰囲気ってい
うか」
「ああ、…あの持って回ったはぐらかすような物言いは昔からだな」
忍人は昔を思うそぶりでかすかに目を細めた。
「それだけじゃなくてさ」
那岐は少し唇をとがらせた。
「この間、書庫に行ったら閉め切られててさ。柊に文句を言ったら『すみませんね、勝手
に見られたくない竹簡もあるので、私が不在にするときには結界を張るようにしているん
ですよ』だってさ。…いつから書庫は柊の所有物になったんだ」
みんなのものだよ書庫は。勝手に竹簡読んだっていいじゃないか、別に。
那岐がぶうぶう言うと、忍人がおかしそうに唇をゆがめた。
「あれの戯れ言にあまり乗るな。おもしろがられるだけだ」
「なんだ、冷静だな。一緒になって柊の文句を言ってくれると思ったのに」
今度ははっきり忍人が苦笑する。
「忍人は、閉め出されたことないの?」
「…さあ。…俺は最近書庫に行かないから」
那岐の細い眉がほんの少し動いた。
「なんで。…その竹簡持ち出したんだろう?」
「…これは母の形見だ。…俺の持ち物だ」
竹簡をそっとなでて、穏やかに忍人は言う。…しかし、その言葉に那岐の表情がふっとこ
わばる。
「………でもそれ、…最近まで書庫にあったよね」
からかいを含んではいるが、硬い声だった。忍人は穏やかな様子を崩さない。微笑んで、
気のせいだろう、と言う。
だが、那岐ははっきりと首を横に振った。
「気のせいじゃない。…ほとんどの竹簡は黒い糸で綴られているのに、それだけ赤い糸で
綴られている。色だけじゃない。その竹簡、少し糸がほつけているだろう。…ほつけ具合
まで同じ竹簡が二つあるはずがない。…間違いなく、その竹簡はつい最近まで書庫にあっ
たんだ」
那岐が忍人をのぞき込むと、彼の顔に浮かんでいた穏やかな笑顔は消え去っていた。真っ
白な無表情が、那岐を見返す。
「…どうして、書庫に行っていないなんて嘘をつくんだ、忍人」
忍人は那岐から顔をそらしてまっすぐ前を向いた。問いかけには無言が返る。だが那岐は、
返答など必要ないと、言葉を続けた。
「…苦しいとき書庫に逃げ込んでいることを、知られたくないからだろう?」
そのときはっきりと忍人の肩が震えた。
「…知られてないって思ってた?…柊が結界を張っているから?…あいにくだったね。柊
よりも僕の方が鬼道の力が強い。…残念ながら中の様子は見えなかったけれど、結界の中
の気配くらいは気取れたよ。柊の気配と、君の気配だった」
かまをかけても柊はのうのうと嘘をついた。それは予想できたことだし、そのことを追求
しようとは思わなかった。良いにしろ悪いにしろ、柊は真実と同じ重みの嘘をつける男だ。
だから彼に嘘をつかれても僕は傷つかない。
「だけどあんたは違うんじゃないの、忍人」
嘘つき属性なんか、ないだろ。
那岐は不意に上を向いた。唇をぎりと噛みしめて。
「忍人が、天地がひっくり返ったって、苦しいなんて言う奴じゃないことは、わかってる」
だから、つらいときにはつらいと言えなんて、言わない。そんなこと言ったら、あんた舌
噛んで死にそうだ。
そんな場合ではないのに、那岐は少しふふっと笑った。
「秘密にされるのはかまわない。…だけど、嘘は厭だ」
おかしいな、と那岐は思う。僕は、感情的な人間じゃないはずだ。うつむいたら涙がこぼ
れそうだと思うなんて、どうかしている。…目頭が熱いのは、きっと気のせいだ。
「君に隠し事をされるより、嘘をつかれることの方が、僕には痛い」
言い切って、ようやく那岐はゆるゆると顔をうつむけた。
傍らの忍人は顔をこわばらせたまままっすぐ前を向いている気配だ。…ああ、こんな時に
もうつむかないんだな、と、…忍人らしいな、と、那岐はぼんやり思う。
そのまましばらく、…二人とも何も言わなかった。部屋の外を、誰かの笑い声が通り過ぎ
ていく。声と足音が消えてしばらくして。忍人がようやく声を出した。
「…すまなかった」
ただ一言。…そしてそのまま黙り込む。
那岐はまた待った。…忍人が言うべきはそれだけじゃない。…自分が聞きたいのは謝罪の
言葉だけじゃない。
異世界にいたとき、総合学習の時間に見せられたビデオを思い出す。道徳観念誘発のビデ
オ。…謝るだけじゃなく、次からどうするかを必ず言い添えましょう、だ。
自分が促さなくても、忍人ならきっとそれに気付いてくれるはずだから。
だから那岐は待った。
待った甲斐は、あった。
「…俺は、君と姫には、………見られたくなかった」
何を、かを言おうとして、…どうしても言い得なかったのだろう。言葉を探し逡巡する気
配に、那岐は首をそっと横に振った。それは言わなくていい、と。…苦しむ自分を、か、
弱い自分を、か。…いずれにしても、それこそ忍人が舌噛んででも言いたくないだろう言
葉だ。
「だから、隠れた。…だが、そのことは謝らない。出来うる限りこれからも、…君たちに
だけは見せたくない」
「…いいよ、…わかった。…それが忍人の意地なんだろう。…張れる限り張るといい」
「…ああ。……だが、…もう嘘はつかない」
たとえ君たちから隠れることになっても。…隠れたと正直に言う。
その言い方が忍人らしくて、那岐はほんの少し笑った。まっすぐ前を見るばかりだった忍
人が、ようやく那岐を振り返る。こわばっていた表情から少しだけ力が抜けて、那岐と瞳
が合うと、苦いながらもゆるりと笑んだ。
「約束したよ」
小指を出すと、忍人は怪訝そうな顔をした。
……ああそうか。…これはあちらの風習だった。
だが那岐は、強引に忍人の小指に自分の小指を絡める。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。…ゆびきった」
「………那岐?」
わけのわからない忍人が少しうろたえる様子に笑って、那岐はそっと小指を放した。
「約束するときはこうするんだ。…今度嘘ついたら、針を千本飲ませるよ、忍人」
「………痛そうな話だ」
真顔がおかしい。
「嘘つかなきゃいいんだ」
「……わかった」
忍人はしごく真面目にうなずく。那岐はまた笑う。まだ何も安心できる状況ではないのだ
から、笑っている場合ではないのだけれど。
…ああでも、笑っている方がいいじゃないか。忍人の目に映る僕が不安そうな顔をしてい
るより、いつもの仏頂面や、笑っている顔の方がいいはずだ。
約束する、忍人。…君が嘘をつかないと約束してくれたから。僕は君に、不安な顔を見せ
ないと約束する。…たとえ君がどんなにつらい状態になっても。僕は決して、君に不安な
顔は見せない。いつだって平然と、いつもの仏頂面でいるよ。
…君には言わないけれど。それが僕の約束だ。
那岐の様子を見て、安堵したのか、忍人が目を閉じてそっと吐息をもらす。…気付かれな
いように、那岐は指切りした自分の小指にそっと口づけた。



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