眠る闇
今日は少し船内が騒がしい。いつもの堅庭にも人が多くて、おちおち休んでいられない。
那岐は人の気配の少ない場所を探して書庫へやってきた。
扉を開けようとして、眉をひそめる。
……開かない。
「…おかしいな」
書庫はいつもたいてい開けっ放しなのだが。
「…まあでも、柊なら鬼道で扉を閉め切るくらいのことは、できるか」
書庫の主である柊は、竹簡に異常なほどの愛情を注いでいる。何か思うところあって、締
め切っているのかもしれない。
「……しょうがない、磐座に行ってみよう」
那岐はあきらめて背を翻した。
「……行きましたよ」
書庫の中で、あかりとりの窓の下に竹簡を読みながら立っている柊が、その傍らの書庫の
陰に向かってつぶやいた。
こらえていたのだろうか、柊の声がかかったとたん、ごほ、げほ、とひどい咳が、その陰
が作る暗い闇からこぼれでる。
「…結界を作って、外には音も気配も漏れないようにしてあるから、咳をしても大丈夫だ
といったのに」
突き放したように聞こえる声で、柊が、視線はまっすぐ前に向けたまま、その闇に対して
つぶやく。
闇の中、うずくまるように膝を抱えて、忍人がいた。背を丸め、柊の声など耳に入ってい
ないという様子で咳き込み続ける。
「……」
やがて、ごふ、という感じの音の咳を一つして、彼はまた静まりかえった。
「今のは那岐でしたよ」
柊は相変わらずまっすぐ前を見たまま言葉をつづる。
「…そう、だな」
ようやく忍人が柊の言葉に応じた。ただ、咳が苦しいせいか、言葉はかすれてとぎれがち
だ。
「彼は招き入れた方がよかったんじゃありませんか」
その言葉に、忍人の肩がびくりと震えた。
まっすぐ前ばかりを見ていた柊の視線も、ようやく忍人に向かって降りる。変わらぬ闇の
中、疲れ切ったぼんやりとした瞳で、忍人はぽつりという。
「……那岐と姫にだけは知られたくない」
「君を一番心配しているのはあの二人ですよ」
「だからだ」
柊はまた竹簡に視線を戻した。…読んでいるのかいないのか、竹簡はちっとも繰られてい
かない。
「君は私のことなど嫌いでしょう。…その私に頼み込んでまでして、こんなほこりっぽい
ところに隠れるなんて。…愚かなことだと思いませんか、自分でも」
淡々と、柊は忍人を非難する。
「遠夜に薬湯でももらえばいいのに」
げほ、とまた咳を一つして、…忍人はつっかえつっかえ言葉を紡ぎ始めた。
「…俺は別に、…お前を嫌ってはいない」
何度かつばを飲んで、乾いた喉を潤す。
「信じられずに判断に疑義を差し挟むのと、嫌うのは別だ」
そうですかね、と柊はからかうように言ったが、話すのがつらいらしい忍人は、その言葉
にはいちいち言い返さなかった。
本当に必要なことだけ、つぶやく。
「…どうせ、薬では治らない」
「咳を押さえるくらいはできますよ」
「…どうだか」
ごほごほごほ、とまた続けて咳き込んで。
「…遠夜にも、…できれば、知られたくない」
口を手で覆って、もう片方の手で胸を押さえる。ひゅー、とかすれた息が喉から漏れるの
が痛々しい。
その呼気に眉をしかめ、柊は目を閉じて、ふう、とため息をついた。
「…君が信じてくれるかどうかはわかりませんが、私も君の体を心配しているつもりなん
ですがね。私に知られるのはいいんですか」
忍人は、掌で押さえた口から、ふ、と薄く笑い声をこぼす。
「…お前は、どうせ、弱いやつは、好物、だろう」
とぎれとぎれのかすれた声に、柊が眉を上げ、軽く目を見開いた。薄く乾いた笑みがその
唇に浮かぶ。それから彼は竹簡を置き、ゆらりと動いて忍人の前に腰を落とした。
優しげな目付きで、うつむいて咳を飲み込む忍人の白い頬に、そっとその指の長い掌を押
し当てる。
「…困りますねえ、そんなことを言っては。……私に襲ってくれと言っているようなもの
ですよ、忍人」
「…好きにすればいい」
投げやりにも聞こえる言い方で忍人はつぶやいた。…が、不意に彼は柊の手を払うように
首を軽く横に振り、うつむけていた顔を上げた。
「…だが、俺とて、むざとは殺されない」
かすれた声に、力がこもる。疲れ果てていたはずの瞳に挑むような光が生まれ、白い顔に
ぎらりと生への意志がよぎった。
柊は瞳をややすがめ、降参、という身振りをして、苦笑した。
「…私の言う『襲う』とは、そういう意味ではなかったんですがね」
「……?」
不審げに眉をひそめる忍人に、なんでもありませんよ、忘れてください、と柊は言葉を添
えた。
「…気がそげましたよ。…少し眠りなさい、忍人。…今の君に必要なものは、会話や議論
ではなく、休息だ」
柊は手袋に覆われた人差し指で忍人の額をそっと抑えて、口の中で何事をかつぶやいた。
と、忍人の瞳がとろん、とぼやけ、ゆるゆると両のまぶたがおりてきて瞳を隠す。そのま
ぶたにも柊はそっと指で触れる。
「…なんだ……、きゅうに、なんだか、…からだが、だるく……」
ゆるりゆるり、忍人が話す。…だんだんろれつが回らなくなる。
「……ひい、ら、ぎ…?」
甘えたようにも聞こえる舌足らずな声で名を呼んで、…そのまま忍人はがくりと書棚に体
をもたせかけた。
…その唇から、すうすうと穏やかな息がこぼれ始める。
「…私は、何もしていませんよ」
柊は、その呼吸を見届けてから、静かに口を開いた。
「ただ、君の意識に思い出させただけです。君の身体が、とてもとても疲れているのだと
いうことをね」
君は意志の力で自分の身体を動かしてしまうから、気づいていなかったのでしょう?…君
の身体は本当に、疲れ切っているのですよ。
柊は忍人の肩を抱き、眼帯をした方の目を忍人の額に押し当てた。
「…忍人」
ささやくようにその名を呼んで。
「……おしひと」
もう一度、そしてまた。愛おしく、繰り返す。
「…私のこの失われた目から風が吹くというなら、…私よりも、どうかこの子を守ってく
ださい」
私の魂など、消えてしまってもかまわない。刀が食い尽くしてしまえばいい。その代わり
に、この子が生を全うできるなら。
「…神は、私などではなく、この子をこそ生かすべきだ」
うずくまる二つの人影は、しかし、二つともにゆるゆると闇の中に消えていくようだった。
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