星光る
千尋を囮とした本隊は、果無峠の手前に構えられたムドガラ将軍の陣に向かって、粛々と
進んでいく。その行軍の様子を見送って、さあ、と声を出したのは柊だった。
「囮とばれるまでにあまり時間もないでしょう。手分けして、ムドガラ将軍に術をかけて
いる術者を捜しましょう」
うなずいて、まず風早が東の方角に消えた。那岐がその風早に背を向けるように、西の方
角へ足を向けると、するりと忍人が追いついてきた。
「…忍人?」
「俺は鬼道の気に疎い。同行させてくれ」
那岐とて願ってもない。鬼道使い同士で戦えば、術を出し合って気力の削り合いにしかな
らない。忍人がいてくれれば決着も早く着く。
うなずいて、那岐は忍人の先に立った。
鬼道を使っている気配はかすかながらある。だが方角的に正しいかどうかははっきりとし
ない。どうやら、この山には地中に洞窟のようなものが出来ていて、その中で術者は詠唱
しているのではないだろうか。だから、気は感じるのに方角が曖昧なのだ。どこか、洞窟
を見つけなければ、と那岐は思った。
忍人に告げると、無言でうなずく。
その表情を、じっと那岐はうかがった。
彼の眉間にしわがあるのはいつものことだが、それにしても、なんだか、と思っていると、
視線に気付いた忍人がなんだ、と小声で聞いてきた。
「…忍人さあ。…今回の作戦が始まったときからずっと、機嫌悪くない?」
眉間にしわが一つ増えた。
やべ、と那岐が思っていると、
「…機嫌が悪いというか」
ぼそりと忍人が言う。
「納得がいかないというか」
「…納得?」
「……」
おそらく、無駄話をしている場合ではない、という意識からだろう、いつにもまして、忍
人の口が重い。那岐が、もういいよ、と言おうとしたとき、忍人が言葉を継いだ。
「ムドガラ将軍は、中つ国でも名の知れた武人だ。高潔な方だと聞いている。その方が何
故、鬼道の力に逃げたのかと」
言ってから、忍人はちらりと那岐を見て、すまない、とぼそりと言った。
「鬼道使いの君の前で言う言い方ではないな」
「いいよ別に。鬼道の力がどうこうと言うより、武人の誇りとかそういう世界だろう?…
わからなくはない」
ただ、那岐は、あの老将軍が何故鬼道の力を使うのか、おおよそ見当が付くつもりでいた。
そのことを言うと、忍人が驚いた顔をする。
「君は、何故だと思う」
「こっちにアシュヴィンがいるからだろ」
那岐はぽそりと言った。
柊がごそごそ言ってたじゃないか。アシュヴィンとムドガラは師弟の仲だと。だとしたら。
「ムドガラ将軍はきっと、アシュヴィンを傷つけたくないし、アシュヴィンに自分を傷つ
けさせたくないんだ。…戦場だから、そんな甘いことを言っている場合じゃない、とはも
ちろん思っているだろうし、アシュヴィンが師匠だからと言って手加減する性格でないこ
とも当然彼は知っている。だけど、手加減しないからこそ、きっとアシュヴィンが後で傷
つくことも、将軍は知ってるんだ」
だから。
「圧倒的な力の差を見せて、あきらめさせたかった。そのためなら、己の意に染まぬこと
でも受け入れた。…自分のためじゃなく、アシュヴィンのために」
ちらっと見ただけだけど。…そういうこと、考えそうなおっさんだと思った。
「…きっと、彼は少し、僕の師匠に似てる」
黙って那岐の言葉を聞いていた忍人が、少しはっとした。
「だからたぶん、…僕の考えは、少しは合ってる」
忍人の眉間のしわがやんわり薄れる。唇に、微笑とまでは言えないが、何か納得したよう
なゆるみが生まれて。
「…そうかもしれないな」
さっきまでとはちがう、穏やかに噛みしめるような声で忍人が呟いた、そのときだった。
「…!」
鬨の声のようなものが響いて、二人は慌ててそちらを見た。山腹に、ぽかりと穴が開いて
いる。今の声はそこから響いてきたのだ。続いてもう一つ。今度は別の声。
「遠夜だ」
「さっきの声は布都彦だった。同行しているならいいが」
忍人が自分を責めるような顔をした。那岐は気合いを入れるつもりで、肘で忍人の腕を強
く突く。
「きっと一緒にいるさ。布都彦が君以上に鬼道の気配に聡いとは思えない。きっと遠夜と
一緒に行動しただろう」
那岐は穴に飛び込んだ。とたんに、鬼道の気配がはっきりした。穴の外には術の気配が漏
れないよう何か結界でも張っていたのだろうが、穴の中には何もしていなかったのだろう。
「忍人、こっちだ」
言うより早く、那岐は走り出した。
ムドガラ将軍は、果無峠の崖下に消えた。
忍人が小隊を率いて姿を探したようだが、どうしても見つからなかったらしい。
少し後味の悪い勝利になった。千尋は早々に自室にひきとり、アシュヴィンも彼にと与え
られた個室から出てこない。布都彦も、サザキでさえも、なんとなく砂をかんだような顔
をして、言葉少なに回廊にいる。
那岐は堅庭に出た。
四阿の向こう、今日は新月で、あたりにはぼんやりとした星明かりしかなくてはっきりは
見えないが、誰かがいる。
…忍人だ、と思った。
彼は、ムドガラ将軍の捜索から帰って報告を終えた後すぐ、自室に引き取ったはずだった。
だがただよう気は、破魂刀のもの。…忍人のものだ。
「…忍人」
呼びかけると、ゆらり、と振り返る。那岐は大股に堅庭を突っ切って、忍人のところへ向
かった。
「…疲れてるんじゃないの」
肩を並べる位置でぼそりと言うと、
「…体は疲れているんだが」
前を向いたまま那岐を見ずに、ぽつりと忍人は言って。
「…どうにも、眠れない」
そのまままた、口をつぐんだ。
こうして堅庭にいるときの彼は、戦いの場にいるときの彼とは印象が変わる。戦いの場に
いる彼は、鬼神のようなという表現そのままの気力にあふれた姿なのだが、誰もいない堅
庭で佇立瞑目しているときの彼は、まるで氷で出来た彫像のようで、いつか誰も知らない
間に溶けて消えているのではないかと思うほど、静かで、心許ない。
特にこんな闇の多い夜は、…いつか彼はこのまま闇の中へ溶けて行くのではないかと、…
那岐は不安になる。
だから、忍人の方から口を開いてくれたときは、正直ほっとした。
「…考えていた」
「…ムドガラ将軍のことを?」
「最初は。…だが、どうにもやりきれないので、途中から違うことを」
「ちがうこと?」
忍人は空を見上げた。夜の海の色の瞳が夜空を映す。星が瞳に降りてくる。
「…俺ならば、誰のためならば信念を曲げて鬼道を使うかと」
使わないと思うよ、あんたは。…那岐はこっそりそう思った。信念を曲げる忍人など想像
もつかない。
でも一応、聞いてみた。
「誰のためなら、使う?」
「…」
忍人はやはり逡巡した。だが、やがてふわりと、
「…俺は、姫がどうしてもそうしてくれと言うなら、受け入れるだろう」
「…」
那岐は強く何度も瞬きをした。
…忍人の言葉とも思えなかった。
心を静めて、忍人の言葉を反芻して、…問う。
「それは、千尋が君の上に立つ大将軍だから?」
忍人は困った顔をして目を伏せた。
「…そうだ、と言えれば、俺も出来た人間なんだが。…あいにくと、ちがう」
彼女だからだ、と。忍人はぽつりと言った。
その言葉にこもるかすかな熱を、恋と名付けることも出来るだろうが、…けれどそれは、
少し違う気がした。尊敬や信頼、というのもまたちがって。
…なぜだか、慈しみ、という言葉が、那岐の胸に浮かんだ。
「姫が望んで、…術をかけるのが、那岐、君なら」
「…僕?」
両の手のひらを卵を包み込む形にしたとき、掌の中の空間に生まれる熱。その熱のような
じんわりとした温かさにひたっていた那岐は、自分の名をそこで出されて我に返った。
「なんで、僕がそこに」
「姫がもっとも信頼する鬼道使いは君だろう、那岐」
忍人から向けられる眼差し。…こもる、かすかな愛おしい慈しみの熱。
「俺が、一番信頼できるのも、君だ。…だから。姫がどうしてもと言うなら。術者が君な
ら。…俺は従う」
那岐は、かすかに忍人から顔を背けて、髪をぐしゃぐしゃとかき回した。星明かりしかな
い夜でよかった。明るかったら、真っ赤になったこの顔に、きっと忍人は気付くだろう。
「…忍人は、時々どうしようもないたらしだ」
「…は?」
那岐の言葉に、忍人は怪訝そうな顔をした。
「何でもない、こっちの話」
乱暴に手を振って、忍人の顔から目をそらした那岐は、ふと、あれ、とつぶやいた。
「それ、何?」
「…?」
忍人が首をかしげる。
「その腰の飾り紐。玉が増えてない?」
「ああ、これか?」
忍人は一つの玉を持ち上げた。他の玉は丸いのに、その一つだけが勾玉の形をしていて、
瑠璃色の紐が結ばれている。
「この間、遠夜にもらった。俺が持つべきものなのだ、と言っていた」
ずっと持っていろ、というので、ここに結んでいるんだが。…どうかしたか?
問われて、いや別に、と首を振りながら、那岐はしかしその玉から目が離せなかった。
もしかしたら、これはあのとき遠夜が磨いていた玉だろうか。誰に渡せばいいのかもわか
らない、といっていたあの玉。行き先がわかったのか。…ああでも。
何かが違う。あのときの、なんの変哲もない石ころのようだったあの玉とは違う。何かが
こもっている。何かを秘めている。…なんだろう。なぜだか胸騒ぎがする。悪いものでは
ないと思う。けれど、見た目通りのただの勾玉でもない。
この玉は、…いったいなんだ?
「…那岐?」
忍人に呼ばれて、那岐は取り繕うように、きれいだね、とても、と言った。
「ラピスラズリだな」
「…らぴすらずり?」
「ああ、ごめん。こっちの言葉で言えば瑠璃か。…星がたくさん入っててきれいだ」
そっとさわると、…不思議な熱が感じられた。
やはりただの玉ではないのだ。
…なにかは、やっぱりわからないけれど。
その熱に触れると、急に肌寒さが思い出された。…この時期の夜の堅庭は、長くいる場所
ではない。
「…忍人。…もう戻ろう。明日もまた、きっと早いから」
駄目かな、と思いつつうながすと、意外と素直に忍人もうなずいて、きびすを返した。
腰の紐が揺れると、勾玉も揺れる。…瑠璃にちりばめられた星のせいか、不思議な光を放
っているようにも見える。
…那岐は一度目をこすった。
…玉は、光など放っていなかった。
けれど。那岐の胸の上ではねる勾玉の一つが、ひょん、と同じように光を放って瞬いた。
…那岐はそれを知らない。
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