時雨
ぱたぱた、と軽い足音が聞こえてくる。那岐はこもっていた書庫から顔を突き出した。
「…あ、那岐!」
尻尾を振りそうな勢いで走ってきたのは足往だ。
「忍人様、見なかったか?」
「…書庫にはいないけど。庭じゃないの?」
足往はぶんぶん、と首を横に振る。
「また雨が降ってきてる。一応のぞいたけど、四阿には姿がなかった。…もし見かけたら、
俺が探してたって、伝えてくれ」
じゃあ、と言うと、またぱたぱたと走っていってしまう。書庫をのぞきもしないのは、那
岐を信用しているからなのか、書庫が好きではないのか。
「…後者かな」
何気なくつぶやくと、不意に背後に気配がした。
「…どうかしましたか?」
「…うわあ!」
柊がくすくす笑う。
「気配殺して近づくなよ!」
「気取れない未熟さを棚に上げて人を責めるのはよくありませんねえ」
にやにやしている柊を見ていると、那岐は、足往が書庫を疑わない第三の理由に思い当た
った。
ここにはほぼ常に柊がいる。
忍人は、基本的に、用事がないときにわざわざ柊と長時間一緒にいることはない。
…だから、いないと思ったんだな。…実際いないし。
はー、とため息をつくと、那岐は読みかけの竹簡を棚に戻した。
「おや?」
「ちょっと、散歩。気分転換」
そう言って、那岐は、柊の鼻先で書庫の扉をぱったんと閉めてやった。
あてどなく歩くと、つい堅庭に足が向いてしまう。
今日は足往の言うとおり、朝から雨が降ったりやんだりで、今も雨が蕭々と降っている。
だから、庭には誰もいない。…見える範囲にはいない。が。
扉を開けた那岐は、がしがしと頭をかいた。
「……なんだ。いるじゃん、忍人」
見渡す堅庭には、人影はない。四阿の下にも、屋根がなく雨が降り注ぐ庭の中にも。
だが、気配はあった。
正確に言うと、那岐が感じ取ったのは忍人の気配ではない。彼が持つ破魂刀がただよわせ
ている、妖気とも殺気ともつかない気配だ。忍人の気配も気取ろうと思えば気取れるのか
もしれないが、破魂刀の気が強すぎて、那岐にはまずそちらが鼻についてしまうのだ。
雨は、蕭々とそぼ降る雫から、霧のような細かさに変わった。
霧雨の中、那岐はゆっくりと堅庭の縁に近づき、よいしょ、とのぞきこんだ。
忍人は、いつも那岐が寝ている場所に座り込んで、ぼんやりしていた。那岐がのぞきこん
でくる気配でゆるゆると顔を仰向け、かすか、笑う。
「…どうした」
「それは、こっちの台詞。…雨だよ。何してるのさ」
「…雨を見ている」
……うーん。
那岐は頭をがしがしとまたかいた。
「そこにいると、濡れるぞ。船内に戻った方がいい」
「そこ、濡れない?」
「枝と、縁の出っ張りがあるから」
那岐は無言で、忍人の傍らに降りた。足を伸ばして座ると足が濡れるからだろう、忍人は
胡座を組んでいる。その隣に、那岐も胡座で座り込む。
「…君も物好きだな」
呆れた様子で忍人は言ったが、きつく止めてもどうせ聞かないと思っているのだろう。強
いて船内に戻らせようとはしない。
「…足往が探してたよ」
「…それで探しに?」
「いや、…そういうわけでもないけど」
那岐がもごもごと口ごもると、忍人はまたかすかに笑む。立ち上がろうとする様子はない。
「…行かないの?」
「……」
微笑んだまま、忍人は無言。ふう、と那岐は腕の毛が逆立つような感覚を覚えた。
「……立てないのか、もしかして?」
忍人は那岐の表情を見て、今度ははっきりと破顔した。
「そんな青い顔で人を病人扱いしないでくれ。別に体に不調はない。いつでも立てる」
「…脅かすなよ」
「……脅かしたつもりはないんだが」
確かに、勝手に誤解して青くなったのは自分だ。なんだか恥ずかしくて那岐はそっぽを向
いた。忍人がそんな自分をそっと見やる気配がして、また視線が外れる。…そして、その
つもりはなかったにせよ脅かしたわび代わりだろうか。…ゆるゆると話し出した。
「…さっき、堅庭に足往が入ってくる気配はした。…だが、姿が見えなかったからだろう、
名を呼んだりはしなかったから、出て行かなかった」
あれがいつも自分を探していると思うのは自意識過剰な気もするし、と忍人が付け加えた
ので、いや、それは自意識過剰じゃなくて事実だと思うよ、と那岐は進言した。
「……もう少し、雨を見ていたいんだ」
忍人はぼんやりとまた宙に視線を投げる。手のひらを上に向けて、右手をゆるりと空へ差
し出す。その手を受け取る誰かが、その先にいはしないかと、那岐は一瞬ひやりとした。
だが、誰に忍人がさらわれるでもなく、彼はただ、霧のようではっきりとは見えぬ雨をそ
の手のひらに受けているだけだった。
「…母が昔、『時の雨』と呼んでいた」
「霧雨のことを?」
「霧雨でなくても、…今くらいの季節、今日のように降ったりやんだりする雨のことをそ
う呼ぶようだ。時の雨とか、時知る雨とか」
初めて聞く言葉だ、と、那岐は思う。…ああでも、異世界ではこういうしょぼしょぼと降
る雨のことをしぐれと呼ぶことがあったっけ。たしかあれも時の雨と書いたはずだ。
「初めてその言葉を聞いたとき、俺はまだ子供で。…何でも聞きたい年頃で。…母にずい
ぶん質問した記憶がある。どうして時の雨と呼ぶのかとか、時を知る雨とは、いったい何
の時を知っているのかとか」
理詰めで聞きまくる幼い忍人の姿は、なんだか容易に想像できる。小さい頃、自分も師匠
を質問攻めにしたことがあるのを思い出して、那岐は少しくすぐったいような気持ちにな
る。
「たいていのことは明確に答えてくれる母だったが、単なる昔からの言い回しをそう問い
詰められても彼女にも答えようがなかったのだろう。このことに関しては、なぜかしらね、
そう呼ぶのよ、と言うばかりで。なんとなくすっきりしなかったことを覚えている」
「忍人のお母さんをやるのも大変だ」
「そうだな。君の親代わりをやるのと同じくらい」
む、として忍人をにらむと、明らかにからかうそぶりで、那岐を見て彼は笑っている。そ
れからまた視線を雨に向けた。
「他にも母を質問攻めにして困らせたことはあるはずなんだが、なぜか思い出すのは時の
雨のことばかりだ。…たぶん母が、この言葉についてはどうにも歯切れが悪かったからだ
ろう」
「…まあ、由来がよくわからない言葉なんだろうね」
何気なく那岐が相づちを打つと、それもあるが、と言って、忍人は何かを考え込む風情に
なる。
「……那岐。君は、星の一族のことを知っているか?」
それは少し唐突な問いに聞こえたが、那岐は素直に答える。
「柊がその一族の出なんだろう?…本当かどうか知らないけど、未来が見える能力がある
って、千尋から聞いた気がする」
「そう。…俺の母も星の一族の出だった。未来が見えることもあったようだ。その母が、
時を知る雨と言うとき、そこにはどんな意味があったのかと、…子供でなくなった今、こ
ういう雨を見ると時々思うんだ」
忍人は言い終えて少しまた黙り込んだが、那岐が傍らでじっと同じように考え込んでいる
のを見ると、かすかな苦笑をもらして立ち上がった。
「…忍人?」
「霧雨になったことだし、そろそろ船内に戻らないか、那岐。今なら堅庭にあがってもそ
う濡れることもないだろう。…君は、俺が動くまで、どうにもここを動かない心づもりの
ようだし、君に風邪をひかせるのは気が進まない」
「風邪なんかひかないよ」
忍人の少し保護者ぶった物言いにむっとして、那岐はことさら子供っぽい言い方でむきに
なった。
「だといいが」
忍人は嘆息した。そのそぶりも、いかにも子供の駄々に大人が困じているという様子で、
那岐をむっとさせる。
「あんたこそ、僕より長くこんなとこにいて、絶対風邪ひくから」
「俺はもともとの鍛え方が君とは違う」
なーにーをう、と思わないでもないが、…鍛錬と称する体を動かす時間が、那岐と忍人と
では格段に違うことは事実なので、これという反論が出来ない。
霧雨に体を濡らしながら木の枝を伝って堅庭に戻る。出来るだけ濡れないようにと腕で体
をかばいながら堅庭を走って入口に戻ったら、突然入口の直前で忍人が足を止めた。
「わ、なに、突然…」
「…大丈夫ですか?」
やわらかな声が問いかけてきた。
「…柊」
那岐は思わずつぶやいた。忍人は無言だ。
「風邪を引きますよ。…どうぞ」
戸口に立っていた柊は、柔らかな布を二枚差し出して、少し身を引く。那岐と忍人は布を
一枚ずつ受け取って、入口のひさしの下に体をちぢこめた。
忍人が無言のまま雨をぬぐっている。柊は微笑んでそんな忍人と那岐を等分に見守ってい
る。不承不承、那岐が口を開いた。
「…未来を見たのか、柊?」
柊は一瞬目を見開いて、それからやわらかく破顔した。
「いいえ。…ただの勘ですよ。君が書庫から出て行った時間から類推して、そろそろ中に
入る頃だろうと思って。…あとは、私も少し、雨が見たくなったから、ですかね」
柊はそう言って、霧のような雨を見上げた。
「…祖父がよく、この時期の雨のことを、時知る雨と呼んでいましたよ。…どういう意味
かと問い詰めて、祖父を困らせた記憶があります」
「……」
「……」
那岐が思わず忍人を見ると、忍人も顔をぬぐう布の隙間から那岐を見ていて、…那岐はそ
の瞬間、爆笑してしまった。
「…どうかしましたか?」
忍人は無言でそっぽを向く。那岐は笑いすぎて声も出ない。
「おかしいな。忍人は何を怒っているんです?別に忍人を怒らせるようなことを言った覚
えはないのですが」
「あんたらそっくり!」
それには答えず、やっと出た声でそれだけ叫んで、那岐は膝をたたいてまた笑い転げた。
「自分でどう思っているかはしらないけど、やってることそっくり!」
「…はあ?」
忍人はむっとしたままだ。柊は露骨に不得要領な顔をしている。その顔も、見ようによっ
てはなんだか似ていて、それがまたおかしくて、那岐はげらげら笑い続けた。
「…中に入る」
むっつりと、ようやく忍人が口を開いて、足を入口に向き直らせた。那岐も目尻に浮かん
だ涙をぬぐいながら、それに続こうとする。柊だけ、動かない。
「入らないのか、柊」
「先にどうぞ。…今一緒に行くと、また忍人を怒らせそうだ」
忍人はそれを聞いて眉間にしわを深く刻んだ。
「…その大きな図体で風邪を引かれて寝込まれる方がよほど迷惑で腹立たしい。別に怒っ
ているわけではないし、一緒にいても怒らないから、さっさとお前も中に入れ」
柊は、おや、と目を丸くして、やんわり、笑んだ。
「…はい。…では、将軍のご命令通りに」
「わざとらしい言い方をするな」
「忍人、怒らないからとか言いながら、怒ってるじゃん」
「別に怒っていない。…俺は普段からこういう物言いだ」
「……」
…ああ、まあそれはそうかも、と思いながら柊を見上げると、柊も那岐を見下ろして、軽
く肩をすくめてみせた。
もう忍人は何も言わない。二人を振り返りもせずに、廊下を回廊の方へと歩いていく。那
岐はその後を追いかける。…その後ろから柊がゆっくりと廊下に入り、後ろ手に堅庭の扉
を閉める。
その手袋の指先から、時知る雨の雫が滴り落ちた。
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