玄武の玉
堅庭の端で、彼は風に吹かれていた。焦点の合わない瞳で、何かを見つめている。カタク
リの花のようなその瞳にはしかし、空を行く雲しか映っていない。
堅庭の扉が開いた。誰かが入ってきて、数歩で足を止めた。
彼はゆるりと振り返り、焦点のあった瞳で入ってきた人物を認めて、にっこりと微笑んだ。
足を止めていた人物が、気を取り直して再びこちらに近づいてくる。
あと少し、というところで、カタクリ色の瞳がふわりと開いて、唇が動いた。
「お帰り、忍人。…訓練、お疲れ様」
玄武の磐座で声が出てから、遠夜の声は千尋だけでなく皆に届くようになった。それと知
っているのに、少し不意打ちを食らった気持ちで、忍人はあと少し、のその場所で足を止
めた。
「……どうかした?」
遠夜は微笑んだまま少し首をかしげる。
「…いや」
忍人は首をすくめた。
「君が声を出したときから思っていたんだが。…俺にはずっと、君の声は聞こえていなか
ったのに、なぜかとてもよく知った声のように思えて、不思議だなと」
ああ、という顔で、遠夜はくすぐったそうにまた笑った。
「忍人の耳に聞こえていなくても、忍人の心に俺の声は届いていた。それを覚えている。
…それだけのこと」
「…そうか」
そうか?と思わないでもないのだが、別にこの話を長々と問答したいわけでもないので、
忍人はさらりと応じて話を変えた。
「ここで何を?」
「少し前まで那岐がいた。那岐と話していた」
それからまたくすりと笑って。
「ついさっき、サザキがわあわあ言いながら連れて行った」
忍人も苦笑した。サザキはどうにも、那岐をかまいたがる。サザキが大騒ぎしながら那岐
を連れて行ってしまう図は容易に想像がついた。さぞかし、と思っていると、突然遠夜が
後一歩の距離を自分から縮めてきた。
「…忍人、これ」
褐色の手が、ついと何かを差し出す。
「…勾玉か?」
玻璃でなくて、瑠璃を削りだしたと見えるのが珍しい。穴を開けて、紐が結ばれている。
その紐も、いったい何で染めたのか、美しい瑠璃色をしている。藍よりも少し紫がかった
華やかな色だ。こんな色の紐は見たことがない。
「美しいな。…君が?」
「磨いたのは、俺」
そうか、とうなずいて、ふと脳裏をよぎったのは、腰が低く慇懃無礼な物言いだったある
男のこと。
「…エイカも、時間があるとよく磨いていたな」
遠夜は首をすくめた。
「エイカほど、俺の細工は上手じゃないけど」
つぶやいて、遠夜はその勾玉を忍人の手に押しつけた。
「…?」
「これは、忍人の勾玉」
「…俺?」
忍人は驚いて、それから眉をひそめた。
「俺には必要ない。姫に渡せばいい」
いつもなら、いや以前なら、忍人に強い言葉で拒否されれば、びくりとしておずおず引き
下がっていたはずの遠夜は、しかし、はっきりと力強く首を横に振った。
「それは駄目。これは忍人のための勾玉。…忍人以外の者が持っていては意味がない」
「……?」
その剣幕と、その言葉に、忍人は少し気圧される。遠夜ははっとその様子に気付いて、少
し声を和らげた。
「忍人。勾玉にはそれぞれ行くべき場所がある。土蜘蛛にはそれがわかる。…この勾玉が
行くべき場所は、君のところ」
ぐい、と押しつけられた手の、常の彼らしからぬ熱さと、その瞳の光の強さに、忍人は一
瞬反論する言葉を失った。思わず開いた手に転がり込んできた勾玉は、おそらく遠夜がず
っと握りしめていたからだろうが、人の肌と同じ暖かさをしていた。
「持っていて、忍人」
強い声だった。まるで命令のような。
「持っていて。どんなときでも手放してはならない。…それが玄武の意思」
そこに神の名が出てくるとは思っていなかった。
「…玄武?」
「そう。その玉は玄武の意思で俺の元へやってきた。俺の手を経て形を変え、君の手に渡
るように」
「玄武が?なぜ?…この玉に何がある?」
そこで初めて、遠夜が逡巡を見せた。…まるで、今の今まで神が彼に降りていたのに、急
に去ってしまったかのような。力があるのにどこか頼りなげに見える、いつもの遠夜がそ
こにぼんやり立っている。
「…わからない」
ぽつりと、すまなそうに遠夜は言った。
「…今の俺には、なぜ玄武がその勾玉を託したのかはわからない」
最初は、それが誰のためのものなのかさえわかっていなかった。土蜘蛛なのに。俺は、俺
にはまだ、力があまりにも足りない。
「…ごめんなさい」
「…いや、君が謝ることではない」
遠夜はただ、託されたものを素直に俺に届けただけなのだから。
「これに何の意味があるのか、考えるべきは俺だろう。つい口にしてしまった。気にしな
いでくれ」
「…うん。…でも俺も考える。勾玉のことを考えるのも、土蜘蛛の仕事」
まっすぐな忍人の謝罪に、ふわ、と遠夜が笑ったので、少し場が和む。それから、そうい
えば、と、遠夜が小さく呟いた。
「…?」
「勾玉のことではないけど、玄武の磐座で気付いたことがある」
「…何を?」
「玄武の考えは、朱雀に近い、かもしれない」
「……?」
忍人に首をひねられて、ええと、と遠夜は慌てた様子で一生懸命言葉を探す。思わず、慌
てなくていいから、と忍人は声をかけてしまった。
「青龍は、…どちらかというと、ワギモに力を貸すことも、今のこの人の世も、あまりよ
しとしていないようだった。…でも、朱雀は人の子をとても愛している。この船にいると、
慈しまれていると常に感じる。…玄武も同じ。…静かだからわかりにくいけれど、人や、
自分の眷属や、…自分が加護を与えた者のこと、とてもとても大切に思っている」
朱雀が那岐を気にかけるように、玄武は俺と君を気にかけている。そのあかしが、その勾
玉だと思うから。
「大切にしてほしい」
「……ああ。…わかった」
忍人は勾玉を持つ手をぐ、と握りしめた。勾玉からは、ただ遠夜の熱が伝わるだけで、何
も忍人には伝わってこないけれど。誰かが自分を気にかけてくれている、という、こそば
ゆいようなうれしさは、じわじわとやってくる。
「…忍人が、玄武で良かった」
「…?」
うふうふ、と遠夜は笑っている。…そういえば、那岐が遠夜のことを「なついた動物みた
いだ」と言っていたな、と忍人は思う。…言い得て妙だ、とも。
「同じ玄武の加護を受けたのが、忍人でうれしい」
「それは…」
なぜ、と聞こうとしたとき、ばたばたと那岐が堅庭に駆け込んできた。ばたばたと走って
一気に忍人たちのいる庭の端までやってきて、ものすごい勢いでいつもの隠れ家に隠れる。
「………」
「………」
忍人と遠夜は顔を見合わせて。
「…那岐?」
忍人が一応声をかける。
「…しー!…やっとサザキを巻いてきたんだから、声出さない…」
「ふっふっふっ、あ・まーーい!」
那岐のひそひそ声の背後から、サザキの勝ち誇った声が響き渡った。
「げ!」
「お前の行き先なんか、いくらもないんだ。空からだと丸見えだぜ、那岐?」
それでも、男を乗せて飛ばない、という決め事は守って、いちいち隠れ家に降りてから腕
力で那岐を堅庭に引っ張り上げるところはサザキらしい。
「さー、続きだ、続き。勝ち逃げは許さないぞー」
「負けるまで賭け事しろって!?」
「…サザキ、何をいったい…」
サザキは忍人と遠夜を振り返ってにっかり笑う。
「今、いろんなキノコの食べ比べをして、誰がやばいキノコにあたるか勝負をしているん
だ」
「………」
忍人は額を押さえ、
「…サザキ、そういうことはやめたほうが」
真顔で遠夜が進言する。
「大丈夫、大丈夫。本気でまずいのはまざってねえからさ。ちょーっと笑い続けて止まら
ないとか、そういうのがまざってるだけで」
「だから、僕は一応植物には詳しいんだってば!どれだけ勝負を続けたって、負けやしな
いから!もういいだろ!?」
「そんなの最後までやらなきゃわからねえだろ?…まだキノコはいっぱいあるぞ。さー来
い」
…そのままサザキは那岐を引っ張っていってしまった。
「「……」」
後に残った忍人と遠夜は再び顔を見合わせて。
「…まあ、少なくとも、同じ神の加護を受けたのがサザキでなくて良かったな、遠夜」
「…忍人でよかったって言うのは、そういう意味じゃない」
慌てて遠夜は反論して。…それから、少し肩を落として。
…ないけど、でも。
「…サザキでなくて、よかった、かも」
………。
二人、視線を交わして、ぷ、と笑う。
「…俺も、同じ玄武の加護を受けたのが君で良かった」
忍人は笑いながら言った。
「俺は、君の強さが好ましいから」
遠夜ははっとなる。
「俺も。…俺もそう。俺は忍人の強さが好き。…忍人の強さはいつも、前を向く強さだか
ら。だから好きだ」
咳き込んだように言われて、忍人は目を丸くした。…同じことを、言おうと思っていたの
だ、遠夜に。
先を越されてしまったな、と、少し頭をかく。…まあいい。あえて言葉を重ねるには当た
らないだろう。…その強さが好きだと、そういうだけで、きっと遠夜には伝わったと思う。
強い風が吹いてくる。…頼りない花にも見まがうような姿だけれども、遠夜はその風に負
けない。まっすぐに風を見つめて、前を向く。
忍人も、肩を並べて、風に吹かれた。…冷たい北風に、なぜか温もりを感じながら。
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