杯

「千尋。食事」
那岐が自室に首をつっこんで呼びに来た。千尋は読んでいた竹簡から顔を上げて立ち上が
る。
「ありがとう」
「何読んでたの?」
「…中つ国の歴史」
「……今更?」
「だって、知らないことが多いんだもの。…でも狭井君は知ってると思ってどんどん話を
進めるから」
那岐が肩をすくめるので思わず苦笑する。那岐は狭井君が苦手らしく、名前が出ただけで
も顔をしかめる。
「あのおばさんのことなんか、無視すればいいのに」
「…そうはいかないよう…」
那岐くらい開き直れたら楽だろうなあ、とは思うけれど。姫はそうはいかないのだ。
食事の部屋は、回廊の奥にある。天鳥船の中で、たぶん一番広い部屋だ。顔を出すと、こ
ちらこちら、と風早が手招いた。
「あれ」
那岐が不審げな声を出した。
「那岐?」
千尋が那岐を見やると、那岐は風早に向かって、
「あんたさっき、岩長姫に捕まってなかった?」
問うた。
「捕まりましたよ」
風早は二人に席を示しながら苦笑する。
「で、逃げてきました。今日は那岐と姫にちょっと話が、ってね」
「どうして?」
千尋が聞くと、今度は肩をすくめた。
「狭井君から酒の差し入れがあったそうで。大きな瓶を3つくらい抱え込んでいらっしゃ
るのでね。三十六計逃げるにしかずというでしょ?」
「………それ、こういうときに使うことわざ?」
那岐が額を押さえたが、風早が意に介した様子はない。
「少しだけいただいてきました」
ほら、と杯を指し示す。…見せられた杯を見て、千尋はあれ、と思った。
「…風早、その杯…」
見覚えがある。釉薬がかかっていない肌合い。少しへしゃげた側面。
「…あっちの橿原にいたとき、使ってなかった?それ」
千尋の言葉に、那岐も杯をまじまじと見つめて、ほんとだ、と呆れた声を出した。
「あっちのものをこっちに持って来ちゃって、いいわけ?」
風早はおっとりと笑っている。
「もともとこちらの世界のものですからね。俺の刀や君の御統と同じですよ」
「「え」」
那岐と千尋の声がハモる。
「知らなかった」
「そうですか?…あちらでは、釉薬がかかっていない器を見つける方が難しいでしょう?」
……言われてみれば、確かに。陶器の専門店に行くなら別だろうが、スーパーや普通の雑
貨屋では釉薬がかかっていない食器などほとんど見かけない。
「でも、刀はともかく、そういうのをあっちに持って行くこともそもそもよくないだろ」
那岐が口をとがらせると、厳しいなあ那岐、と風早は笑った。
「君の言うとおりなんだけど、なんだか置いていくのがしのびなくてね。…ちゃんと持ち
帰ったんだから、いいじゃありませんか」
風早の言葉を聞きながら、千尋は少し不思議な気持ちがしていた。
風早がものに執着する様子など、あまり見たことがない。…異世界にいたときは確かに、
執着してもどうせ置いてこなければならないという事情があっただろうが、それ以前でも、
それ以後でも、あまりそういうそぶりを見せたことはない。
「風早の大切なものなんだね」
だから思わずその言葉が口をついて出た。
風早は少しびっくりしたような顔で千尋を見て、
「…ええ、…そうですね」
かすかな笑みを唇の隅に浮かべ、ゆっくり首肯する。
「少しへしゃげているけど、風早が初めて作ったものなの?」
「いいえ、これは…」
「…なんだ、こちらにいたのか、風早」
風早が説明しかけたとき、忍人が大股に近づいてきた。
「すまない、一緒にいいだろうか?」
那岐と千尋にも目線を合わせて問う。
「…あんたも三十六計逃げるにしかずなわけ?」
那岐に言われて、忍人は一瞬きょとんとしたが、すぐ察して、ああ、と苦笑した。
「忍人さんもあまり飲まないんですか?」
「そういうわけではないんだが、…戦が終わったわけでもない時期に、あまり量を過ごし
たくはないんだ。…師君が相手では、そういう正論は通用しないし」
……あああ。
その言葉には、思わず那岐も千尋も深く何度もうなずいてしまった。…わかる。それはわ
かる。
「サザキと柊がついているようだ。…十分だろう」
遠くをすかし見てから、ふと忍人は風早の手元に目をとめた。
…その表情が変わる。
「…まだ持っていたのか、そんなもの」
……え?
那岐と千尋は顔を見合わせた。風早はのほほんと笑っている。忍人はなぜだか少し耳を赤
くして、不機嫌そうな顔になる。
「忍人さん、…知ってるんですか?この杯」
「…てか、なに、その顔。…なんでそんなむっとしてるわけ?」
那岐と千尋が代わる代わるに問うと、彼はふいと顔を背けてしまった。
ふふふ、と笑ったのは風早だ。代わりに彼が口を開いた。
「これはね、忍人が俺に作ってくれたものなんです。…彼の初めての作品なんですよ」
「えっ」
「……へえーーーーー」
千尋が驚く横で、那岐が、これでもか、というくらい語尾をのばして感心した。
忍人はじろりと那岐をにらんだが、にやにや那岐が笑うだけなので、またふいとそっぽを
向く。
「俺と羽張彦と柊に、って3つ作ってくれたんですけど、柊のは窯から持って帰る途中に
割れてしまってね。もう柊の怒るまいことか」
「…おとなげない…」
那岐が言うと、子供だったんですよ、彼も、と風早は苦笑する。
「柊も、今の君くらいの年だったと思いますよ、確か。ねえ、忍人」
「…くらいかもしれないな」
ようやく忍人が口を開いた。
「だから、これで俺が酒を飲むたびに、柊の機嫌が悪くなって、それが楽しくてねえ」
「………」
「………」
「………」
忍人は当時を思い返したようで、額を押さえながら無言でうなずく。那岐と千尋は顔を見
合わせた。お互い譲り合い、…結局、千尋が口を開く。
「……まさかそんな理由で、大事にしてたわけじゃないよね?」
「まさか」
風早が即答し、
「その後で、柊の杯は作り直した。師君のと道臣殿のを作るときに、一緒に」
忍人が言葉を足す。
「作れ作れとうるさかったですからねえ」
「君がいちいちちょっかいを出すからだ」
「でもね、忍人も二回目だからやっぱりちょっと上手になってるんです、新しい杯は。そ
れがまたなんとなく柊には気に入らないらしくて、飲むたび、俺のをじろじろ見て。…ま
たそれが楽しくって」
「……」
「……」
もう質問する気も起きない。那岐と千尋が頭を抱える横で、忍人がぼそりと言う。
「……とっくに壊れていると思っていた」
「…壊したりしませんよ。大事にしていました。…とても」
「……」
忍人がごく小さな声で何か言いかけて、飲み込み、目を伏せた。…もう一度まっすぐに風
早を見据えたときの顔は、もういつもの忍人に戻っている。
「君が作る方がよほど飲みやすい杯だろうに」
「このへしゃげかげんがいいんですよ。ほどよく入らなくて、酒が」
「ほめていないだろう、風早…」
昔なじみ同士の他愛ない言い合いが始まる。言葉の応酬の間に風早が、「ほら、さめます
よ」と二人に声をかけ、「そんなに食が細くては将がつとまらない」とよくわからないお
小言が忍人から降ってくる。那岐も千尋もあわてて手を動かした。
食事を終えてから、軍の体制について話し込み始めてしまった二人を置いて、那岐と千尋
は先に回廊へ出た。…しばらく無言で歩いていたが、那岐がぽつりと、
「…さっき、忍人が言いかけたこと、聞こえた?」
と聞いてきた。
「…さっきって、…あの杯が壊れてると思った、っていったあのとき?」
「そう」
「ううん、何か言いかけたのはわかったけど、聞こえなかった」
「だろうな。…真横にいた僕でさえ、ほとんど聞き取れなかったくらいだから」
那岐が難しい顔をしているのを見て、千尋ははっとなった。
「…なんて言ったの、忍人さん」
「……」
那岐は一瞬唇をかんで、
「こわれていたほうが、って、聞こえた」
「……こわれていたほうが?」
「…そう。…たぶん、こわれていたほうがよかった、って言いたかったんじゃないかな」
そしてまた、那岐は難しい顔をする。
「……那岐?」
「…僕が勝手に思ってるだけだけど。…忍人は、形あるものが誰かの手元に残っているこ
とが嫌なのかもしれない。…自分がいなくなった後に」
「……!」
喉に何かが詰まったような気がした。
その何かを、ごくり、と無理矢理に飲み下し、千尋は唇をかんでその震えを止める。
それからそうっと、那岐を見る。
…那岐は、怖い顔をしていた。
もう一度ごくんとつばを飲んで、千尋は無理矢理に強い声を出した。
「…冗談でも言わないで、那岐」
「…千尋」
「いなくなるとかそういうこと、言わないで。…二度と」
那岐ははっとしたようだ。怖かった顔がふとゆるみ、…一瞬、泣き出す寸前の子供のよう
な顔をして、目を伏せた。
「…ごめん、千尋」
小声で謝る。
「いいよ。…もう言わないでくれれば」
「二度と言わない。…悪かった」
そのまま黙って二人で歩く。…回廊を出たところで、千尋は口を開いた。
「…ねえ、那岐。…少しだけ、堅庭に行こう?」
「いいけど、…何?」
「…だれかと、夜空が見たい気分なの」
自室からでも夜空は見えるけど。誰かと一緒に見たい気分なの。
「……いいよ。つきあうよ」
まるで学校に行くときのように肩を並べて。…それなのに、何も交わせる言葉がなくて。
二人は無言で歩いていった。
扉の向こうに、満天の星空が広がる。…その空の色は、忍人の髪の色に似ていた。


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