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翌朝、風早はずきずきと痛む頭を抱えながらゆっくりと体を起こした。別に昨晩アルコー
ルを摂取したわけではないが、なんだか悪酔いした朝のように頭が重く、気分が悪かった。
今日が日曜日で、学校の仕事も入っていない日で良かった。
しみじみと思う。
教師は休みが多いと思われがちだが、顧問をしている部活の試合が入っていたり、授業以
外の様々な些事に追われたりと、実はまともに休みが取れないことのほうが多いのだ。今
日は久しぶりに、まともな休日を過ごせる日だった。
フリマが今日開かれるのだったら、…俺もついていったのに。
昨日の那岐の感慨と似たようなことを、ぽろりと風早も考える。
時計を見ると、もう8時を回っていた。階下では既に朝食の支度をしているようで、オー
ブントースターか電子レンジが仕事の終わりを告げる音が、ちーんと、かすかに聞こえて
くる。
…今日の食事当番は確か千尋だ。
風早は重いため息をつく。
昨晩の彼女のまっすぐな瞳を思い出す。風早を糾弾しながら、己をも責めていた彼女。凍
り付いたような青い瞳が忘れられない。
階下に降りておはようと言ったら、彼女はおはようと返してくれるだろうか。いっそ風早
をもっと責めてくれればいい。無理して笑ったり、自分を責めたりする姿を見る方が、風
早は辛い。
もう一度重い吐息をもらして、のろのろと風早は起き上がった。身支度を整えて、階下へ
降りる。
「おはよう」
作り笑顔を浮かべておそるおそる食堂を覗いた風早を、思いがけず朗らかな笑顔が迎えた。
「おはよう、風早」
昨日の朝と変わらぬ明るい声の千尋。
那岐はまだ起きてきていないようだ。眠れるだけ眠るが信条の彼なので、休日の朝はぎり
ぎりまで起きてこないのが常で、これは驚くに当たらない。しかし、千尋の平静さは風早
を驚かせた。いや、いっそ恐れさせたと言っていい。
「…?」
状況が飲み込めずにぼんやりしている風早を、
「座らないの?」
千尋が促す。
「今朝は、トーストとスープと卵なの。卵、目玉焼きでいい?」
「…あ、…ああ、いいよ」
きつねにつままれたような気持ちで、風早はすとんと椅子に腰を下ろした。千尋は食パン
をオーブントースターに放り込み、小鍋からスープカップにスープを掬い、フライパンに
卵を二つ割り入れた。滞ることのない手際よさだ。
「飲み物は紅茶でいい?紅茶は、ポットに淹れたてが入ってる。コーヒーがよかったら、
申し訳ないけど自分で淹れてね」
そしてコップ立てからマグカップをとろうとして、ふと、あれ?と彼女はつぶやいた。
コップ立てにはマグカップが四つ並んでいる。底にいずれもWWFのパンダのマークが入
った、リアルな動物柄のおそろいだ。ペンギンとパンダ、キリンとオオカミ。千尋はペン
ギンのマグカップを取り上げ、那岐の席に置き、パンダのカップを自分の席に置いた。そ
してキリンとオオカミのカップを手にして、小さく首をかしげながら風早を見る。
「…ねえ。…風早のは、このキリンのカップだよね?」
質問の意図が読めないながら、風早は穏やかに応じた。
「そうだよ、…俺のはそのキリンだ」
「だよね。…うーん?」
千尋はまじまじとオオカミのカップを見ている。中を見て、また首をかしげて。
「このオオカミのカップ、…なんだっけ?」
………!
電流に打たれたように、風早は一瞬びくりと震える。
そのマグカップは、忍人が使っていたものだ。
「予備で買ったんだっけ?…でもそれにしては茶渋とかついてて、他のと同じくらい使い
込んだ跡があるんだけど。…どうしてかな」
ま、いいか。小さくつぶやいて、千尋はカップをコップ立てに戻した。
千尋がそれ以上の会話を自分に求めないでくれて助かった、と、風早は思った。
もしもっと質問が続いていたら、自分は平静さを装えなかっただろうから。
………まさかとは思ったけれど。……間違いない。

千尋の中から、忍人の記憶が消えている。

ぱたんぱたんとスリッパを引きずりながら降りてくる足音に、風早ははっと振り返った。
那岐が生あくびをかみ殺しながら階段を降りてくる。彼には珍しく、あまり眠れなかった
様子が明確なその姿に、…おそらく彼の記憶は無事だと、少しほっとする。
「那岐も卵、目玉焼きでいいー?」
千尋がオーブントースターから風早の分のトーストを取り出しながら聞いた。入れ替わり
にもう一枚パンを放り込む。
那岐も千尋のその声に少しぎょっとした様子で、食堂の入口で足を止めた。まじまじと千
尋を見て、それから風早に問い詰めるような眼差しを向ける。
…たぶん、さっきの俺と同じ気持ちでいるのだろう。
そうは思ったが、口に出しては何も言わず、風早はただ目を伏せるようにして首をそっと
横に振った。
「ねえ。目玉焼き?」
「うん、…それでいい」
納得はしていない顔で、それでもぼそりと千尋に答えると、那岐はごそごそと風早の斜め
前に腰を下ろした。手元のペンギン柄のマグカップにポットから勝手に紅茶を注ぎ、ごく、
と一口飲んでからまたまじまじと千尋を見る。
目玉焼きを二枚焼き終え、那岐にトーストの皿を渡し、自分の分のトーストも焼いてから、
千尋はすとん、と自分の椅子に腰を下ろした。そして、那岐と風早を等分に見て、首をか
しげる。
「…ねえ。…何か私の顔についてる?」
「…」
那岐が黙して応じないので、風早が穏やかに言った。
「…いいや。…どうして?」
「んー、…なんだか妙に、二人にじろじろ見られてる気がして。…気のせいか。自信過剰
かな」
えへへ、と笑って、彼女はジャムを塗ったトーストにかじりついた。それから、ふと思い
出したように、テーブルの隣にある食器棚を見上げる。
「…ねえ。…ちょっと提案なんだけど」
「…何?」
「いつも思ってたんだけど、…この台所、手狭だよね」
唐突な話題だったが、まあ確かに、千尋の言うとおりだ。LDKやDKというほどのサイ
ズがない場所に、大人四人の食卓を置いて、なおかつ食器棚や調理家電を置いているので、
一人きりで調理しているときはともかく、全員が顔を並べて食事をするとひどく狭く感じ
る。
「だから、…そこの席つぶして、食器棚の方にもうちょっとこのテーブル寄せない?」
そう言って、千尋は那岐の前の席を指さした。
彼女が指さしているのは忍人がつい昨日の朝まで座っていた席だ。
風早も愕然としたが、もっとぎょっとした顔になったのは那岐だ。
「なんで、そんな」
短くそれだけ言って、…その後に言葉を続けられずにいる。が、千尋は、那岐が何をそん
なに驚いているのかという顔をして、だって、と微笑んだ。
「その席、『もともと』使ってないでしょう?お客さんが来るなら、その席を空けておい
た方がいいかもしれないけど、どうせうちに来るお客さんなんてほとんどないし。席をつ
ぶした方が、広くなると思うんだ」
「もともと、って…!」
那岐はついに絶句した。そして、責めるような目で風早を見る。風早は那岐にかすかな目
配せを送り、なんとか穏やかな表情を作って、千尋に、なだめるように笑ってみせた。
「…まあ、…今すぐには結論を出さないでおこう。…ね?」
「…うん」
那岐と風早の反応に、千尋は少し不思議そうではあったが、おっとりと風早に言われると
それ以上は繰り返さず、静かに笑って紅茶を飲んだ。

「本当に何もしてないの」
「…していないよ」
那岐の詰問口調に、風早は答えた。同じ会話を3回はしている気がする。
驚きと困惑の日曜日が終わろうとしていた。千尋は入浴を終え、見たいテレビ番組を見て
しまった後で自室へ引き揚げた。那岐と風早は彼女の気配が静まるのを待って、ようやく
ぼそぼそと今、状況の確認を始めたところだ。
「…俺だって、朝起きていきなり千尋がああだったから、なんというか、狐につままれた
気持ちなんだよ…」
額を押さえてつぶやく風早の少し疲れた表情に、ようやく那岐も少し納得したらしい。追
求を止め、ぼすん、とソファに身を投げ出した。
「……きれいさっぱり、忘れてるね」
「……そのようだね」
風早は深いため息と共に、瞳を閉ざした。
人は、本当に辛いとき、忘れることで己の心を保とうとする。失ったことで、心が穴だら
けになって崩壊してしまいそうなとき、失ったことそのものを忘れてしまって、いや、失
ったもののことすら忘れてしまって、己の心を守ろうとする。
…今の千尋が、たぶんそれなのだ。
そして、ここへ来たばかりの時の千尋も、おそらく。
「……」
風早はもう一度、重い深いため息をつく。
………ずっと、不思議だった。
千尋はどうして豊葦原のことを忘れてしまったのか。
風早はそれを時空移動のせいにしていた。普通の人の身では起こり得ないことを経験して、
その衝撃で記憶が飛んでしまったのだと。
どのみち、こちらで穏やかに生きて行くには、あちらの記憶はない方が暮らしやすい。な
らば、後々思い出して胸を痛めることがないように、と、風早はこっそり、千尋の記憶が
よみがえらぬよう術をかけたのだったが。
君を愛さなかった国に、人に、君は未練も何もないと、俺は思っていた。…でも、それは
違っていたのかもしれないね。俺が思う以上に、君は君の国を、大地を、人々を愛してい
て、…そこから無理矢理引き離されたことは、耐え難い悲しみだったのかもしれないね。
……今君が、愛する人を失って嘆き悲しんでいるのと同じくらいに。
「…どうするの」
ぼんやりと感慨にふけっていた風早に、ぼそりと那岐が言った。
「…これから」
「…どうするって」
風早は、首をぐるりと回して少しこきりと音を立ててから、那岐を見た。
那岐は思い詰めた目をしていた。…いっそ、彼の方が千尋の代わりに泣き出してしまうの
ではないかと思うほど。
「だって、このままでいいわけないだろう?……千尋は本当に、忍人のことを忘れてしま
ってるんだよ?…忍人との思い出も、会話も、…抱いていた思いも、……存在まで」
それが、ここでの千尋の暮らしの全てだったとは言わないけど。でも。
「それが、千尋の中で、とても大きなものだったことは間違いないんだ。忍人に絡むもの
をなくしてしまった千尋は、本当の千尋の半分でしかない」
風早は曖昧な表情で目を伏せた。
那岐は運命が繰り返していることを知らない。だから、本来この世界に来るのは千尋と那
岐と自分だけだったこと、今のこの状態こそが、既定伝承的に正しい姿なのだということ
を知らない。
……そう、……本当は、今が正しいんだ、那岐。
「なんで黙ったままなんだよ、風早!」
千尋に気を遣って声は必死で潜めながら。けれど那岐は、声の色、表情、全てで風早を糾
弾する。
千尋を助けてと。今の千尋は抜け殻なのだからと。
風早はうっすら笑った。
たぶん、本当に正しいのは君だ、那岐。…それでも俺は、今このとき、千尋が苦しくない
方を選ぶ。
俺には千尋が全て。千尋の微笑みが全て。
……だから。……ごめんよ、那岐。
……君も。
風早は、那岐に向かって無言で掌をかざした。
「……風早…?」
訝しげな那岐の声が、すぐに抵抗の色を帯びる。
「何すっ……かざはやっ」
しかしその抵抗は一瞬だった。那岐の瞳はすぐにとろんと膜がかかったように霞み、ゆる
りと閉じた。そのままソファにずるずると埋もれる。
「……ごめん、那岐」
君も、忘れて。
忍人のこと、彼と過ごしたこの世界のこと、…彼と結んだ交わり、すべて。
少し苦しそうだった那岐の表情が穏やかな寝顔に変わる。それを見澄ましてから、ぎゅっ
と風早は目を閉じた。そしてあごを上げ、再び瞳を開いて、宙を睨み据える。
「……ごめん、……忍人…」
既定伝承がこの罪を裁くというなら、…どうか全ての災いを俺に。どうか、忍人にも、那
岐にも、千尋にも、どんな罰も下りませんように。
愚かだったのは俺。間違ったのは俺。…俺の大切な子供達には、何の落ち度もないのだか
ら。
風早は那岐の前髪をさらりと撫でた。
大丈夫。君たちはまた出会うから。必ずめぐりあうから。
千尋はもう一度、忍人に恋をするだろう。初めての気持ちで。
君はもう一度、忍人を友と認めるだろう。深く心を開くだろう。
そして、その絆は二度と壊れない。……壊れさせない。
だからといって、俺の所業が許されるわけではなく、何度言っても謝り足りるということ
はないけれど。
俺は、心から、君たちの幸せを願っている。
…本当だよ。

再び朝が訪れた。昨晩のうちに、神としての力を使ってこの世の全てから忍人の痕跡を消
し、うっかり忍人の記憶がよみがえらぬよう千尋に改めて術をかけた風早は、使いすぎた
力で鉛のように重い体を引きずるようにして起きた。
今朝の食事当番は那岐だ。千尋ももう起きているのか、階下からは、何を話しているのか
はわからないが、楽しげな声が聞こえてくる。
「…おはよう」
食堂を覗くと、おはよう、と朗らかな二重唱が返ってきた。那岐が朝食当番だとたいてい
飲み物はコーヒーだ。湯気を立てているパンダとキリンとペンギンのマグカップが仲良く
食卓に並んでいる。オオカミのマグカップは、食器棚に片付けられてしまったのか、コッ
プ立てには見えない。
「あのさ、風早。今も千尋と話してたんだけどさ、昨日の話」
「昨日…?…なんだっけ」
苦いコーヒーをミルクも砂糖もなしで一口飲んで、風早はおっとりと首をかしげた。
「ほら、台所が手狭だから、食器棚を動かそうって話」
千尋が横から話しかけてきた。
「ああ、あれ」
「やっぱり、そうしたほうがいいよね、って話になってさ。…ウィークデーは無理だけど、
今度の週末にでも、動かそうよ」
那岐は平然としている。食器棚でふさいでしまう席が誰の席だったか、何の意味を持つの
か、…彼ももう、忘れてしまっている。
風早はこそりと胸を刺す針に気付かぬふりで、笑った。
「いいけど、俺一人で動かせ、とは言わないでくれよ。ちゃんと手伝ってくれるんだろう
ね?」
那岐が、うえ、という顔をする。千尋が朗らかに笑う。
「わかったよ。今度の土曜日に、食器棚を動かそう。……確かに、誰も座らない席を空け
ているより、その方がいい」
風早はまた、苦いコーヒーに口を付けた。
…どこかで、伝承の竹簡がぱたんと閉じられる音を、聞いた気がした。



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