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「…手がかりは、なかったんだね」
静かに風早はつぶやいた。
那岐はリビングのソファにぐったりと仰向けに横になって、小さくうなずく。
あの後、那岐と千尋はフリマの会場に戻ったが、既に会場の撤去と搬出が始まっていて、
人にものを聞ける状況ではなかった。店が並んでいればまだしも、ものがなければ、どこ
にどの店があったのかすらもはっきりしない。
そのだだっ広い駐車場で、うろ覚えの千尋が何とか案内してくれた場所には、…かすかな
がら確かに、豊葦原の匂いが残っているような気がしたが、あったはずの店は既にもう跡
形もなかった。多くの人々がその店の跡を通り過ぎていったとみえて、気配すらたどれな
い。
がっくりと肩を落とす千尋を励ますようにして、ショッピングモール内に呼び出し放送ま
でかけてもらったが反応はなく、結局空振りで二人引き揚げることになったのだ。
「…千尋は警察に届けようって言ったけど、いい歳した大人の男が一日やそこら家を空け
たくらいじゃ、警察は相手にしてくれないよって言って止めた」
那岐はぼそぼそと言う。
「千尋は納得したし、実際そうだと思うけど、…でも、千尋を止めた本当の理由はそれじ
ゃない」
那岐は眉をきつくしかめてぐしゃ、と自分の前髪を自分の手でかき乱した。噛みしめた唇
が白い。
「忍人は、きっともう、この世界にいないと思うから」
風早の頬がひくりと震えた。
「…なぜ、…そう思う?」
那岐は薄く目を開けて、疲れた顔で風早を見た。泣きそうなその目が、わからないの?、
わざと聞いてるの?と風早を責めていた。
「忍人を連れて行ったのが豊葦原の匂いを持つものなら、…この世界にとどまっているは
ずがない。……きっともう、…連れ帰ってしまったはずだ」
そしてまた、ぎゅっと強く目を閉じる。
「…忠告されていたのに」
「…忠告?」
その言葉を聞きとがめた風早が思わず聞き返すと、…ああ、そうだ、誰にも話してなかっ
た、と、那岐は小さくひとりごちた。
「僕はこの世界に来て、…二度ほど、豊葦原の人間に会った」
風早は一瞬顔色を変えかけて、すんでのところでそれをとどめた。穏やかな驚きを装って、
問う。
「…知らなかったな。…なぜ、豊葦原の人間だと?服装かい?」
那岐はゆるゆると首を横に振る。
「…匂い。…千尋の髪飾りもだけど、豊葦原の匂いがしたから。というか、この世界では
あり得ないような匂いがしたから」
「……どんな人物だった?」
けだるそうな顔で那岐は空を見た。何かを思い出すそぶりだった。
「男で、…髪が長くて。笑っているんだけど、心からは笑っていなくて、なんだかひどく
苦しそうに見えた。何でも知ってるみたいで、…何もかもあきらめてるみたいな、…そん
な顔」
柊だ、と風早は直感した。那岐の上げた特徴は、知らぬ人が聞けばひどく曖昧なものに思
えただろうが、風早の中でははっきりと、柊の姿が形作られた。写真を見せられたかのよ
うに鮮明だった。
「一度目に会ったとき、そいつは忍人がいる場所をじっと見ていた。恋をしている女の子
みたいな一途さで、じっと見ていた。…そして、僕に気付いてふっと姿を消した。……二
度目に会ったとき、…僕らは少しだけ言葉を交わした。そのとき、そいつが言ったんだ。
…豊葦原の匂いを持つものに注意しろって」
風早は、那岐から少し顔を背けるようにして、目を伏せた。
ああ、柊も、この世界で生きる忍人を愛していたのだと、そう思った。…そう思ったら、
背骨の随を何か電流のようなものが駆け抜けていった。
既定伝承を知り、この先の未来を見、忍人の身に起こることをおそらくはある程度予見し
て、それでも彼のここでの生活を守りたいと、敢えて那岐の前に姿をさらして忠告を残し
ていった柊の気持ちを思うと、ひどくいたたまれなかった。
責められるべきは那岐ではない。苦しむべきは柊ではない。
全ての因は己にある。
俺のわがままが、…たくさんの人を苦しめた。
自分におごりはなかったか。神の力の一端を持つ者ならば、忍人の身に起こることを変え
るのはたやすいと簡単に考えてはいなかったか。羽張彦を失い、柊を失い、自分を失う忍
人。けれど彼は歪むことはせず、まっすぐにあの世界で立っていた。その既定伝承をゆが
めたのは、己の、深慮のない同情と興味からではなかったか。
悔いても、もうことは起こってしまったのだが。
「…那岐」
風早が呼びかけた、そのとき。
かたんと音がして、はっと振り返る。だらだらしていたはずの那岐も、ふっと真顔になっ
て身を起こした。
戸口に千尋が立っていた。
青ざめた顔で、寂しそうに、それでも彼女は無理矢理笑顔を作った。
「…話し声がしたから、お兄ちゃんが帰ってきたのかと思って」
その表情が、針のように風早に突き刺さる。
「風早だったんだね」
風早はおっとりと笑って、一度目を閉じた。
それと気付かれないよう、こっそり深呼吸をして。彼は、…口を開く。
「今日、…大変だったんだそうだね。…今、那岐から話を聞いていたところだ。俺が早く
君たちに知らせれば良かった」
千尋がはっと顔をこわばらせる。
「風早、…何か知ってるの?」
那岐は一瞬ひくりと頬を震わせたが、あえて声を上げず、表情も変えなかった。…これか
ら風早がしようとしていることに、薄々感づいたからだろう。
「ああ。……忍人は、実家に帰ったよ」
「……」
千尋は、その青空のような澄んだ瞳でじっと風早を見た。何かを見澄まそうとするような
眼差しだったが、やがてふるんと一つ首を振って、無理矢理に笑顔を作った。
「そう。…でもまたすぐ帰ってくるよね」
穏やかに笑いながら、風早は、針の雨の下にいるような気がした。
「いいや。しばらくは難しいと思うよ」
「じゃあ、電話する」
千尋はきっぱりと言った。
「だって、…まともにさよならも言ってない。しばらく会えないなら、せめて体に気をつ
けて、くらい言いたい」
風早は首を横に振る。
「残念だけど、忍人の実家は電話を引いていないよ。…本当の山奥だからね」
風早は仮面のような笑顔を顔に貼り付けている。那岐は敢えて二人の会話から顔を背けて
いる。千尋は青い瞳をまっすぐに風早に向けている。長い長い凝視の後、彼女はその瞳を
一回きゅっと閉じた。
「…それって、変よね」
硬い声だった。
「そうでしょう?…電話が通じないなら、お兄ちゃんの家の人はどうやってお兄ちゃんに
連絡したの?」
風早の反応を確かめるように一瞬言葉を切り、…風早の笑顔の仮面が外れないのを見て取
って、千尋は再び鋭い声を出した。
「…もしかしたら、その連絡は手紙で届いていたのかもしれない。でもじゃあどうして、
手紙が届いた時点でお兄ちゃんは家に帰らなかったの?私たちに何の説明もしなかった
の?」
どうして、嘘をつくの、風早?
しん、と居間が静まりかえった。
その瞬間、誰も何も言わなかった。千尋も、風早も、那岐も。
こち、こち、こち、こち、と、小さなトラベルクロックが時を刻む音だけが、やけに大き
く響く。
千尋は風早を見ている。こわばった笑みの風早は、千尋を見ない。顔は千尋に向けている
けれど、視線は逃げるようにソファの那岐を見ている。那岐は二人から顔を背けようとし
て、はからずも千尋の背中を見つめている。
絡み合わない視線が三角形を作っていた。
長いのか、短いのかすらわからない時間が過ぎる。
震える吐息が小さく長くこぼれて、風早と那岐ははっとした。
千尋だった。
「…いじめてごめんなさい、風早」
泣きそうな顔をしているのに、彼女は必死に笑おうとしていた。
「本当は、私も知ってたの。…いつか忍人さんは行ってしまうのだと」
「…!」
風早の頬がひくりと震える。
今千尋は、忍人のことをお兄ちゃんではなく忍人さんと呼んだ。
「でも、私がお兄ちゃんと呼ぶことで、彼をここにつなぎとめておけると思ってた。…う
うん、思いこんでた」
こらえきれなくなったらしい涙が、ぽろりと一粒こぼれる。
「どうしてそんなこと、思いこんだんだろう」
涙をこぼしながら、千尋は笑っていた。自分を嘲っていた。
「呼び名なんて、本当は何の役にも立たなかった。こんなことなら、忍人さんと呼べば良
かった。……お兄ちゃんなんかじゃないって、伝えれば良かった」
千尋が飲み込んでしまって言わない次の言葉は、けれど、風早の心にも那岐の心にも届い
た。
……愛していると、言えば良かった。
「…ごめん。…ちょっともう、今日は寝るね。おやすみなさい」
千尋は言い置いて、ぱたぱたと階段を上がっていった。ばたん、と扉が閉まる音がして、
それきり階上は静まりかえる。
凍り付いたような居間の時間を、こち、こち、こち、と小さな時計の音が少しずつ溶かし
ていく。
それでも、那岐も風早も、しばらく動けずにいた。



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