喪失

「フリマ?」
那岐がめんどくさそうに、それでも一応相づち代わりに千尋の言葉を繰り返した。
「うんそう。…今度の土曜に、ショッピングモールの駐車場でね。半年に一回くらいずつ
やってるらしいの。前行った友達が、かわいい手作りアクセとかいっぱい出てるよって教
えてくれて、…それで、あのう…」
千尋の語尾が消えた。那岐が全身から『僕は行かないよ』オーラを発しているからだ。
すがるような目を向けられた風早も苦笑した。
「残念だけど、今度の土曜日は剣道部の試合が入ってるんだ。さすがに顧問の俺が欠席っ
てわけにはいかないよ」
かくん、と肩を落とした千尋がそろりと忍人を見る。最初から頼らないのは、忍人が人混
みを嫌うことを知っているからだ。
「……」
見つめられた忍人は、少し眉を寄せ、目を伏せ、小さくため息をついて、…それでもこう
言った。
「午後からはバイトがあるから、…午前中だけで良ければ」
千尋の顔がぱあっとほころんだ。
「一緒に行ってくれる!?」
「…午前中だけだ」
「うん、いい!それで十分!ありがとうお兄ちゃん!!」
那岐はテーブルに両手で頬杖をついて、チェシャ猫のようににやにや笑う。
「忍人、千尋に甘すぎ」
忍人は無言で目を伏せたまま、…口元でだけ笑った。
忍人の同行に力を得た千尋が、わくわくと那岐に向き直る。
「ね、那岐もやっぱり一緒に行こうよ」
「行かない」
那岐はぷーと頬をふくらませた。
「僕は家で寝てる」
「もう、那岐ったら寝てばっかり」
「春眠暁を覚えずって言うだろ」
「昼寝に使う言葉じゃないよ」
風早がのんびりつっこみ、那岐はもう一度ぷーと頬をふくらませた。
…このときの判断を、後日那岐は後悔することになる。

フリマは盛況だった。
晴天に恵まれ、気温もほどよかったためか、冷やかしも含めてどっと人出があったようだ。
子供服をあさる家族連れや掘り出し物はないかと鵜の目鷹の目で歩き回る骨董好き風のご
老体、歩く速さや目的も様々な人の波にもまれるようにして、忍人と千尋は歩く。
春先だというのに、忍人は今日も全身黒っぽい格好だ。春めいた明るい色合いの服装の多
い人々の中では少し浮いていて目立つ。そう千尋が指摘すると、見失ってはぐれることが
ないからちょうどいいだろうと、忍人は苦笑した。
店にも、人が多いところと少ないところがある。人気のある売り物を並べているところに
は人だかりができるし、ものは悪くなくても隅の方に配置された店はどうしても足を向け
てもらいにくくなる。
しばらくむやみやたらとフリマの通路を歩き回り、たくさんの売り物と人にあてられた二
人が人混みを抜け出して少し息をついたのも、エアポケットのように人混みから取り残さ
れた隅っこの小さなブースの前だった。
古い家の押し入れにつっこまれていそうな古道具を並べた店は、眠そうな顔をした男がの
んびり店番をしていた。
古い形の花生け、ほこりは払われているものの動かない古時計、木彫りだろうが、年季が
入りすぎて飴色になった置物等々、いかにも家の中のいらない物を売りに来ました、とい
う風情だ。
店の人には悪いけど、これはちょっと売れそうもないな、と千尋が値踏みしていると、思
いがけず忍人が売り物の一つをじっと凝視していた。
「…お兄ちゃん?」
千尋の呼びかけにも返事がない。何を見ているのかと千尋が視線の先を捜すと、そこに、
おもちゃのような刀が二振りあった。
おもちゃのような、と感じるのは、刀が日本刀らしからぬ形をしているからだ。時代劇の
侍が腰に差している刀はゆるく刀身がそっていて細身だが、目の前にある刀はそれよりも
やや太く、左右対称で、ずんどうな形をしている。あえてたとえるなら、ファンタジー系
のゲームに出てくる勇者が持つ剣のようで、そのためにいっそうおもちゃっぽく感じるの
だろう。
「…これ…」
忍人が思わず、といった様子で口を開いた。眠そうな顔の男は少し驚いた顔でまばたきを
くりかえす。
「…変わったものに目をつけるね。…刀、興味ある?」
「剣道部なので、それなりに。…でもこれは…」
「剣道をやっている人から見ると、変な刀だよね」
男は苦笑した。
「うちの物置に放り込んであったものなんだ。刃はついてない。芝居か何かに使ったもの
じゃないかと思うけど、意外とね、作りはしっかりしているんだよ、ほら」
「…本当だ。重いですね」
「だろう?ちゃんと鍛鉄みたいなんだ」
忍人は刀をためつすがめつしている。男はもう一振りを手にして、苦笑いを浮かべたまま
だ。売りつける気配がないのは、忍人を冷やかしと決めてかかっているからだろう。
「全く同じ作りの刀がもう一振りあるっていうのもね。何かしら由来か理由があって作ら
れたものだろうと思うんだけど、何のために作ったものなんだか、見当もつかない。専門
家に聞こうにも、日本刀らしからぬ形をしているものだから、なんだこれは、おもちゃか、
と言われそうで、聞きにくくて」
忍人は刀を手にしたまま、でしょうね、と苦笑を返している。あまり愛想の良い方ではな
い彼が、初対面の相手とこんな風に話すことはごく珍しい。
置いてきぼりを食らった格好になって、千尋が少し唇をとがらせてため息をもらすと、横
の方からくすくすという笑い声が聞こえた。
見ると、隣のブースの店番の女性が笑っている。千尋と目が合うと、困っちゃうわね、と
首をかしげてみせた。
「彼女をほっといて話し込むなんて」
千尋は曖昧に笑った。彼女じゃありません、と言おうかと思ったが、行きずりの相手にわ
ざわざ主張することでもないような気がして、あえて口は開かない。
女性は手作りアクセサリーを売っているようだった。
「お話が一段落するまで、よかったら見ていかない?冷やかしでいいわよ。場所が悪くて、
なかなかお客さんが寄ってくれないの」
たしかに、この一隅までくる客はなかなかいない。冷やかしでいい、と最初から言われて
気が楽になり、千尋はそのブースの前でしゃがみこんだ。
「手作りですか?」
花飾りがたくさん並んでいる。布で出来ているようだ。コサージュのようなものもあれば、
髪飾りもあった。
「そう。布は買ってくるんだけど、染めるのと作るのは自分で」
不思議と、この女性は隣のブースの店番の男性と印象が似ていた。どこか眠そうな、あま
り特徴のない顔立ちだ。
隣同士のブースだし、もしかして家族かしら。
千尋はふとそんなことを考えた。
「あなた、色が白いから、こういう色も似合うと思うわ」
女性は、隣の男性と比べると売る気があるらしく、千尋に髪飾りを勧めてきた。南国の海
のような碧色をした花の飾りだ。手に取ると不思議な香りがした。深い森の奥でしっとり
と露に濡れる苔のようなシダのような。
「つけてみない?」
女性は楽しそうだ。通りかかる人が少なく、暇をもてあましていたところに飛び込んでき
た冷やかしだからだろう。
「え、でも」
「いいからいいから」
手際よく彼女は、千尋が頭頂で結っただけの髪に髪飾りをつけてくれた。鏡を見せてもら
うと、確かに髪の色にその碧は映えた。
「…」
かわいいかも。
「お兄ちゃん、どう?」
機嫌良く隣のブースを振り返って、…千尋は唖然とした。
忍人がいない。
眠そうな顔の男は相変わらず眠そうに店番をしている。
「お兄ちゃん!?」
千尋が改めて叫んだ声で、彼は夢から覚めた人のようにはっとして千尋を見た。
「ああ、…君の連れの彼なら、時計を見て、時間が、とか言って走っていってしまったよ」
「…え?」
慌てて千尋は携帯で時間を確認した。いつの間にか正午を過ぎている。…忍人は確かに、
午後からはバイトがあると言っていた。
……だが、いくら千尋が買い物に熱中していたからといって、何も声をかけずに行ってし
まうことなどあるだろうか。あの忍人が。たとえ時間がなくて気が急いていたとしても、
彼ならば律儀に一言、行くぞ、と声をかけるはずだ。
おかしい。こんなのおかしい。何かおかしい。
不安が募る。
もしかしたら、お手洗いにでも行ったのかもしれない。こんなとき、忍人は携帯を持って
いなくて困る。好きではないと言って、持ちたがらないのだ。こんなことなら、家で寝て
いる那岐の携帯を借りてくるんだった。そうしたらすぐ忍人に連絡がつくのに。つくはず
なのに。
いてもたってもいられなくなって、千尋は闇雲にフリマの人混みの中に向かって駆けだし
た。春色の装いの中、きりりと目立つはずの、影のような彼の姿を捜して。

二段ベッドで機嫌良く惰眠をむさぼっていた那岐は、荒々しく玄関が開く音で目を覚まし
た。いつもならその程度の音で目を覚ます那岐ではないのだが、その時のその音は、那岐
ですら身じろぎせざるを得ないような、なんともいえずせっぱ詰まったものだったのだ。
それに続いて、階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、ばたん、と那岐の部屋の扉が開い
た。
もぞもぞと那岐が布団から身を起こすと、顔面蒼白になった千尋が戸口に立っていた。た
だならぬその様子に、那岐の脳もはっきりと覚醒する。
「…千尋?」
千尋は息を切らしていて声が出ない。
「どうした?…フリマ、行ってきたんだろ?どうだった?」
「…お兄ちゃん、…帰ってきてない?」
「…は?」
不思議な胸騒ぎが那岐を焦がし始める。…その焦燥に敢えて気付かぬふりをして、那岐は
何気ないそぶりで枕元の時計を確認した。
もうすぐ二時だ。
「今日は午後からバイトだって言ってたよね。もうバイトに行ってる時間じゃないか?…
ていうかそもそも、千尋はフリマに一緒に行ってただろ?」
那岐の言葉に、千尋はぐっと詰まったようだった。それからぎゅっと目を閉じる。
泣くんじゃないかと、那岐は慌ててベッドから立ち上がり、千尋の傍らに歩み寄った。
…覚えのある匂いが千尋からするとちらりと思ったが、それが何だったか思い出せないう
ちに千尋が話し始めた。
「…はぐれたの。…はぐれたっていうか、隣同士の店で別々のものを見ていて、振り返っ
たら、…お兄ちゃんはもういなかったの。店の人は、時間がないと言ってどこかへ行って
しまったと言ったけど、でも、いくら急いでいたって、私が買い物に熱中してたって、お
兄ちゃんが私に声もかけずに行ってしまうはずないのに」
「…」
確かに妙だ。急いでいても、隣の店にいたなら、肩をぽんと一つ叩いて、先に行くぞと声
をかければいい。千尋に向かって、その程度の時間を惜しむ忍人ではないはずだ。
「でももしかしたら、お兄ちゃんは本当に時間がなくて、呼ばれたことに私も気付かなく
て、それで仕方なく行ってしまったのかもしれないと思って、…念のため、バイト先に電
話してみたの。…そしたら」
千尋は一瞬唇をかんだ。
「電話に出た人が、今日はお兄ちゃんは来ないって。…妹にせがまれて出かけることにな
ったから、シフトを代わってくれって、その人にお兄ちゃんが頼んだんだって。お兄ちゃ
んが自分から代わってほしいと頼むのは初めてだったから、もちろんいいぞって代わった
とその人に言われて、…でもそれって、…それってじゃあ」
こらえきれなくなったのか、千尋の喉がぐっと鳴り、頬を涙が一筋すっと流れた。那岐は
たまらず、千尋の肩を強く抱く。
……また、……あの匂いがした。
………この匂いを、…僕は知っている。
「お兄ちゃんはどこへ行ったの…?」
「…落ち着け、千尋」
芸のない言葉だと、那岐は自分が情けなくなった。誰にでも言える言葉だ、こんなもの。
千尋が今ほしいのは、こんな言葉じゃない。
情けなくてふいと首を振ったとき、那岐は見慣れないものに目を留めた。
「…」
千尋の髪に、青い髪飾りが留めてある。今まで見たことがないものだ。朝出て行くときに
はつけていなかったと思う。
鼻先にあるそれをまじまじと見て、那岐ははっと気付いた。
深い森の奥のシダのような匂い。
「…!」
先刻から気になっていた匂いは、豊葦原の匂いだ。その匂いが、この髪飾りからしている。
「…千尋」
自分の声が震えていることを、那岐ははっきり自覚した。恐れや悲しみからではない。怒
りからだ。自分に対する怒りで、那岐は声を震わせた。
「その髪飾り、…どうした?」
「髪飾り?」
那岐が突然何を言い出すのかと千尋は少し怪訝な顔をしたが、頭に手をやって、いけない、
と小さく叫んだ。
「試しにつけてもらっただけだったのに、慌ててたからそのまま帰って来ちゃった…!お
金払ってないし、どうしよう、返しに行かなきゃ」
おろおろと那岐の顔をのぞき込んだ千尋は、ぎょっとなって顔をこわばらせた。
「…ど、…どうしたの?」
「何」
「何って、…那岐、…すごく怖い顔してるよ…?」
那岐は努力して笑顔になろうとしながら言った。怒ってるのに笑おうとして、余計に怖い
顔になってるかも、とちらりと思う。
「……そうかも。…僕、今すごく怒ってるから」
「…え、……え、何、に?」
「…僕に」
「……?」
那岐はそれ以上説明することはせず、強く唇をかんだ。
忠告されていたじゃないか。あの男に。豊葦原の匂いがするものに気をつけろ、と。狙わ
れているのは千尋だけじゃない、忍人もだと。
僕は気付いていた。知っていた。それなのに何故、二人を二人きり、送り出すようなこと
をしたんだろう。僕がついて行っていれば、その場で豊葦原の匂いがするものに気付いて
いれば、二人をそこへ近づけさせなかったのに。なぜこうもたやすく用心を怠ってしまっ
たのか。
本当は、理由はわかっている。那岐は、気を利かせたつもりだった。千尋と忍人が二人き
り出歩くことなどあまりない。デートのつもりで楽しんでくればいいと、そう思って、だ
からわざと自分は居残ったのだった。
いいことをした、と思っていた。だからこそ余計に、今那岐はそのときの自分の判断が許
せない。
「…那岐…?」
怯えるような千尋の声に、那岐ははっと我に返った。
まだだ。まだ何かできることがあるかもしれない。ここであきらめてはならない。忍人を
ここで失うわけにはいかない。皆で豊葦原に還るならともかく、忍人一人をここで失うわ
けには。
「行こう、千尋」
「…え」
「フリマの会場に戻ろう。何でもいい、忍人の手がかりを探したい」
「…う、…うん!」
こくん、と力強くうなずく千尋の肩を抱くようにして、那岐は部屋を飛び出した。


次へ