ストロベリーオンザホールケーキ
「うう、疲れた…」
ヴィオラケースを肩に、のろのろと歩きながら、大地がしみじみとつぶやいた。
オケ部はほとんどが音楽科在籍の経験者で、一年生といえどもそれなりに弾きこなす人間
ばかりだ。その中に初心者が混じって同レベルを目指すのは一朝一夕に出来る話ではない。
なんとか食らいついている大地はたいしたものだ。だがもちろん、合同練習に参加するだ
けではなかなか上達しない。音楽科と違って、授業時間に楽器に触れる機会があるわけで
もない彼は、毎日居残りをして技術を磨き続けている。
今日も結局強制下校時間ぎりぎりまで律を相手に練習していた。つきあわせることをいつ
も大地はすまながるが、上達が著しい大地の練習に付き合うのは、律としては結構楽しい。
他の部員と違って、ミスや未熟さを指摘してもふてくされることなく練習する大地の真面
目さも律には好ましかった。
大地の家と律が戻る寮は途中まで同じ道だ。ゆっくり歩いていると、突然大地がふらふら
と目についたカフェに吸い寄せられるように近づいていった。ちょうど店から誰か人が出
てきたところで、ぶつかりそうになって我に返ったようで、慌てて律を振り返る。律が少
し驚いた顔で見返すと、かすかに照れたように笑った。
「…コーヒーでも飲んで帰らないか、律」
照れ隠しなのだろうか。少し頬を赤くしながら誘う彼に、律はかすかに笑ってうなずいた。
大地はどちらかというとブラックが好みのはずだが、今日はカフェオレを選んでいる。律
もカフェオレを頼んで、
「…」
少し首をかしげてから、モンブランを追加する。その注文を聞いた大地は少し驚いた顔を
した。
「…ケーキ?珍しいな。律でも疲れるのか?」
「疲れる?なぜ?」
律が首をひねると、
「いや、疲れた時って甘いものがほしくなるだろう?お前がケーキなんて珍しいから、疲
れて体が糖分を欲してるのかと思って」
…なるほど、それでブラックではなくカフェオレか。
折しも運ばれてきたカフェオレに、大地は、普段はあまりいれない砂糖を入れてぐるぐる
かき回している。
律は、いやそういうわけじゃない、と、ケーキにぷすりフォークを突き刺してから答えた。
「俺は、誕生日だから、ケーキくらい食べようかと思っただけだ」
「…誕生日?」
大地は律の言葉をオウムのように繰り返す。
「…誰の?」
「俺の」
・・・。
大地の眉根がそっと寄る。律はモンブランを口に運んだ。
このカフェはケーキ専門店ではないが、なかなかいける、と思う。ねっとりしたマロンク
リームはきちんと栗の味がする。
だが、なにか物足りない。おいしいのに物足りない。…それがなんだかわからない。
内心で首をひねっていると、大地が短くまた問いかけてきた。
「いつ?」
短すぎて何を問われているのかわからない。
「何が」
と聞き返すと、お前の誕生日、とまた短く彼は言った。
「今日」
律の答えに、大地は寄せた眉の間に深くしわを刻む。
「聞いてないぞ」
その声は少し不機嫌そうだ。律は首をひねりながら、生真面目に答える。
「…言ってないな。たぶん」
大地の眉間にさらにしわが増えた。
「言えよ。そういうことは。…前もって」
押し殺したような声に、律は少し目を見張った。
大地は怒っているのだろうか。…だが。
「言えと言われても」
小学生の女の子ならいざ知らず、高校生男子が初対面の自己紹介で誕生日の教えあいっこ
をする道理はない。その後の会話でもまた然り。
かすかな困惑が律にこう言わせた。
「俺だって、大地の誕生日は知らない」
思わず大地がうっと詰まった。カフェオレのカップを持ったまま固まる。その間に律はぱ
くぱくとモンブランを片付け、まだ固まっている大地をちらりと見て、ぽそりと言葉を付
け加える。
「俺の誕生日は今教えた。大地の誕生日はいつなんだ?」
「…俺は12月29日…」
何か、気が抜けたような声で大地は応じた。大掃除のシーズンだな、と律は小さく笑う。
ああそうだよ、とぼそりつぶやき、少し乱暴に大地はカフェオレを呷った。その瞳が何か
深い考えに沈んでいることに律は気付いたが、何に思い悩んでいるのかは結局わからない
ままだった。
「りーつ」
寮の部屋で翌日の授業の予習をしていた律は、突如扉の向こうから聞こえてきた友の声に
驚いてシャーペンを取り落とした。
慌てて手元の目覚まし時計を見やると、短い針は9の手前を指している。
基本菩提樹寮は出入り自由だし、住んでいる寮生が少ないこともあってか、夕方から訪ね
てきた友達が夜遅くまで話し込んでいくこともままあるが、さすがにこんな時間に外部か
ら人が訪れてくることはあまりない。
驚きのために律が動けずにいると、
「りつー?」
扉の向こうの声は少し焦れた響きに変わった。慌てて律は椅子から立ち上がり、部屋の扉
を開けた。
「よ」
大地が白い大きな箱を抱えて立っていて、そのまま律を押しのけるようにずかずかと中に
入ってきた。
「大地、…何…」
軽く混乱して、律がおろおろと声をかけると、大地は無表情に、
「ケーキ」
と箱を突き出した。
「……?」
とっさに受け取りかねて、律が手を出せずにいると、問答無用で大地はその箱を勉強机の
上にどんと置いた。そして断りもせずにさっさと箱を開け始める。
「売ってるもんだな。閉店間際でも、ホールケーキ」
「…これ」
大地が箱が開くと、イチゴの載った生クリームのケーキがどんと現れた。ホールケーキと
言っても、最近流行りの少し小振りなものではなく、直径20センチほどもある堂々とし
たケーキだ。ご丁寧に、ちゃんとチョコレートのプレートがついていて、りつくんおたん
じょうびおめでとうとひらがなで書いてあった。
「誕生日祝い」
大地は相変わらず表情の薄い声で宣言する。
「…これを丸々一個もらっても困る…」
もう少し早い時間なら、寮生みんなで分けるという選択肢もあったが、この時間では、気
の早い者はもう寝ている。それでなくとも、自分の誕生日ケーキのためにわざわざ皆を呼
び集めるのは律には気が重い。祝いを強要するような気がするからだ。
「困らせようと思ってホールケーキにしたんだよ。いやがらせだ」
だが、大地は律の困惑を見ても顔色一つ変えなかった。しかも、いやがらせときっぱり言
い切る。普段、友のあたりがやわらかいところしか目にしていなかった律は、ただただ困
り果てる。
「…大地」
弱り切った律の声に、ようやく大地が表情を動かした。
「なぜ教えなかったんだ」
…誕生日を教えていなかったことを、まだ怒っているのか。
律はため息をついた。
「答える前に俺が聞きたい。…大地は何故そんなに誕生日にこだわってるんだ」
「…お前が誕生日だからってケーキ食べるような奴じゃなきゃ、俺だってここまでこだわ
らなかったさ」
大地はそう言って、律の目をまっすぐに見た。虹彩がかすかに茶色がかった瞳は、いつに
なく暗く沈んでいる。
「お前さ。今まできちんきちんと家族で誕生日祝ってたクチだろう」
その通りなのでうなずくが、なぜそれがわかるのかがわからない。
「そういう奴じゃなきゃ、誕生日だからケーキでもって発想にはならないんだよ。ああそ
ういや誕生日だった、で終わるさ」
律はしみじみと大地の言葉を咀嚼する。
確かに、…考えてみたこともなかったが、そういうものかもしれない。
「…頼むから、家族と離れて初めての誕生日を、ひとりぼっちで祝おうとするなよ。…淋
しいだろ」
ああ、ちがうな、と大地は少しうつむいて額に手を当て、ゆるく首を横に振った。
「お前はたぶん気付いてないんだろうけど、それはすごく淋しいことなんだ。淋しいって
ことに気付いてないお前が、俺は淋しい」
……この期に及んで、律はようやく腑に落ちた。自分を見る大地の暗い瞳。その色が意味
するもの。大地がずっと自分に対して怒っていた理由。
「…」
そうだ。淋しいのは自分じゃない。……大地だ。
自分に置き換えて考えてみればいい。
大地がもし家族と離れて一人きりで誕生日を祝おうとしていたら。それを目の前で自分が
見ているのに、別に祝ってくれなくていいと言われたら。
律でさえおそらく、置いてきぼりになったような気分を味わうだろう。まして、人が好き
で好きで仕方がないようなこの友人ならなおのこと。
「…すまない」
思わず律の口をついて出たのは謝罪の一言だった。大地は顔を上げ、片目をすがめて笑う。
「…謝らなくていい。俺も少し、短気が過ぎた。……悪かったよ」
それからちらりとケーキの箱に視線を投げる。
「寮のキッチンに冷蔵庫があったよな。…入れてこようか。一人じゃやっぱり食べきれな
いだろ」
明日にでもみんなで食べるといい。一日くらい大丈夫だろう。
頭が冷えたらしい大地が、そそくさと箱を片付けようとするのを、腕に触れることで律は
止めた。
「…?」
「まさか、渡すだけ渡して帰るつもりじゃないだろうな?」
大地の方が律より少しだけ背が高い。律が大地の目に視線を合わせようとすると、かすか
に上目遣いになる。
「俺の誕生日は今日なんだ。…今、祝っていってくれるんだろう、大地?」
「…ああ」
なぜか律から少し目をそらして、大地はうなずいた。
「キッチンからナイフを取ってくるよ。あと、皿とフォークだな。…それと、他に誰か呼
んでこようか」
「…いや」
律の否定をためらいととったか、また少し気難しい表情で向き直った大地に、律は笑う。
「今日はお前と二人がいい」
「…っ」
大地は一瞬絶句した。かすかに顔が赤くなる。
「…大地?」
「いや、…何でもない。…わかった」
言い置いて、少しぎくしゃくした動きで部屋を出て行く大地を、律は少し首をかしげなが
ら見送った。扉の向こうに背中が消えても、足音を耳で追っていると、じわじわと、くす
ぐったく暖かいものが胸に満ちてくる。ふわふわと楽しくて、なんだかヴァイオリンが弾
きたくて仕方がない。このいてもたってもいられないような幸せな気持ちを、音にしたい。
ここが住宅街の真ん中でなければ、思う存分弾くのに。今ならきっと、どんなに幸せな曲
でも自分は弾きこなせる。
衝動を堪え、律はそっと目を閉じた。ゆらゆらと、胸の中の音楽に身を委ねて。
おまけ