雪

その日は一日どんよりと重い雲が空を覆い、しみいるように寒かった。
夕食を終えて、忍人は何気なく堅庭へ出た。いつもは同じようにぶらぶらと外を見に出て
くる者も多いのだが、今日は寒さのせいだろうか、誰も見あたらない。
庭の先端までゆるゆると歩いていって、…ふと、気配に顔を上げる。
…まさにその瞬間、ふわり、と、白いひとひらが空から舞い降りてきた。
「…初雪か」
つぶやいて、ふと、忍人は空に手を伸ばした。落ちてくるそのひとひらを受け止めようと
するかのように。

第一章 荒地に降る雪

アシュヴィンの部屋の戸を、誰かがほとほとと叩く。寝台に寝転がったままのアシュヴィ
ンに目で合図されたリブが戸を開くと、そこにひどくうれしそうな顔をした遠夜が立って
いた。
「…おや。どうしました?」
リブの言い方が比較的心安いことに気付いたアシュヴィンが、奥から戸口をのぞき込み、
「なんだ遠夜か、入ってこいよ、何の用だ?」
とかつての主治医に向かって呼びかけた。
遠夜はその呼びかけに、こぼれ落ちんばかりに大きな瞳をきらきらと輝かせて、アシュヴ
ィンが閉め切っている窓の板戸を指さした。
そして一言。
「雪」
アシュヴィンの合図を待たず、リブが窓に近寄ってその板戸を開いた。冷たい風と共に、
ひらりふわり、白いものが舞い込んでくる。
そのままリブは窓から身を乗り出した。遠夜もぱたぱたと寄ってくる。
「…これは」
「ね」
気のなさそうだったアシュヴィンも、日頃感情を抑え気味の二人には珍しい、どこかはし
ゃいだ声につられたとみえて、ゆるゆると寝台から身を起こした。リブと遠夜が場所を譲
ったその隙間から空を覗く。
「……ああ」
闇色の空から雪が舞い降りてくる。ひとひらが、アシュヴィンの前髪の先に舞い降りて、
すうっと溶けた。
「久しぶりに見ます」
リブが静かに言った。
「私の子供の頃には、常世でも年に何回かは降ったものですが。…積もったことさえ、あ
りましたよ」
「お前、俺と自分の年の差を勘違いしていないか。…2歳しか違わないんだぞ。俺が子供
の時にも雪は降ったさ。…もっとも、俺は積もったのを見たことがないが」
「俺は、…こっちに来るまで、雪を見たことなかった」
アシュヴィンよりさらに5歳若い遠夜がぼそりとつぶやく。
「それに、高千穂には、降らなかった。…一度、柊に連れられて筑紫に行ったときに、見
たきり」
リブとアシュヴィンは目を見合わせ、…アシュヴィンが優しい目をしてぽんぽんと遠夜の
頭を何度か叩いた。
常世が干ばつに見舞われて久しい。夏の雨も少ないが、冬の雪も降らない。どころか、い
つの頃からか、冬は奇妙に暖かくなった。元々は、常世には温暖な地域も寒さが厳しい地
域もあり、寒さが厳しい地域では羊や山羊などの動物を飼って、その毛を梳いて作る織物
で寒さをしのがねばならぬほどだったのだが、気象の異常のせいでその必要が少なくなっ
てしまった。そのため、食べていけずに羊たちを手放した領民も多い。
リブが子供の頃は、そこまでではなかった。アシュヴィンが子供の頃も、おそらく兆しは
あったのだろうが、まだ普通に人たちは生活していた。……だが、遠夜が物心ついた頃に
はもう、常世は少しずつおかしくなり始めていたのだ。あまり人が気付かないところから、
ゆっくりと。…しかし確実に。
「積もりますかね」
のんびりとリブが言った。
「どうかな。…初雪だ。あまり積もらないんじゃないか」
アシュヴィンが応じると、遠夜が少し寂しそうな顔で言った。
「積もってほしい」
再びアシュヴィンとリブは目を見合わせた。互いの目に浮かぶ優しさに、お互い照れて苦
笑する。
「…積もるといいな」
ぽん、とアシュヴィンはまた遠夜の頭に手を載せ、そのままぐしゃぐしゃぐしゃと乱暴に
髪の毛をかき回した。ふにゃあ、と遠夜が猫のような声を出して抗議する。
「冷えますね。…温かいお茶でも淹れましょう。…戸を閉めますか、殿下?」
アシュヴィンはちらりと遠夜を見た。…遠夜がすがるような目をしている。…アシュヴィ
ンは破顔して、いいや、と首を横に振った。
「もう少しこのまま雪を眺めるとしよう。…雪見で茶というのも、いいものだろう」


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