第二章 翼に降る雪

「こりゃあ、積もるなあ」
楼台で外を眺めながら、サザキは大きな声で嘆息した。傍らで地図を眺めていた岩長姫が
顔を上げる。
「…常々思ってたんだがね」
苦笑のようなものを浮かべている。
「日向の一族の天気予報はよく当たるね。…何かコツでもあるのかい」
「あー?…コツってえか…。…そうか、知らないか。…知らないよな」
サザキはがしがしがしと頭をかいた。
「俺たち日向の一族は、風が見えるんだ。…いろんな風がさ。だから、天気がどう変わる
かが読める。……今吹いてくる風は、かなりでかい雪雲の先触れだ。だから夜の間に積も
ると思う」
「…風が見える?…へえ、そういうからくりだったのか」
サザキの説明に、そうかい、と言ってそれ以上は問い質さず、彼女はまた地図に視線を落
とした。が、黙って静かにその場にいたカリガネが、珍しく口を開いた。
「…我々以外に日向の知り合いでも?」
岩長姫は再び顔を上げた。カリガネが口を開いたことに少し驚いたのか、片眉を上げてい
る。
「…なぜ?」
「……なんとなく、昔を懐かしむそぶりだった。…我々しか日向の知り合いがいないなら、
そんな顔をするはずがない」
岩長姫はまじまじと彼の目を見て、…あんた聡いね、と苦笑した。
「…確かに昔、あんたたち以外の日向の一族を一人、知ってたよ」
「…へえ」
サザキは音がしそうなほどゆっくり大きく何度か瞬いた。それから、不意にわくわくした
顔になる。
「…なあ。…せっかくだから昔話をしてみる気はないか?」
「あたしの昔話を聞いたって、おもしろくもなんともないよ。やめときな」
岩長姫は大げさに手と首を横に振ったが、サザキはなあなあ、と言いつのる。カリガネま
でが、
「…ぜひ」
と言うに至って、岩長姫は大きなため息を一つついた。
「…ああわかったよ。話すよ。…話すけど、本当にたいした話じゃない。…あたしの若い
頃、橿原宮に武者修行に来てた日向の一族が一人いたのさ。…そいつもしょっちゅう天気
予報をして、それがまたよく当たるもんで、みんなの評判になってた。なぜそんなに当た
るんだ、って聞いても、絶対教えてくれなくてね」
岩長姫は少し遠い目をした。
「真面目で明るくて腕が立って、…いい奴だった。あまり長く一緒にはいなかったけどね。
春に橿原に来て、その年の冬が来る前に、里から知らせが来て帰っちまったから」
それだけだよ、と話を打ち切ろうとして、……そういえば、と彼女は楼台の窓から見える
景色を眺めた。
雪が降っている。
「雪を見たがってたねえ」
「…雪?」
サザキはその単語を繰り返した。
「そう。…雪が見たいと言ってた。初雪が降ったら一緒に見ようと誘われたよ。あたしは
ほんとは雪なんか寒いから厭だったけど、…なぜだか、誘われたことがうれしかった」
目を伏せた岩長姫のその口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。一方、サザキとカリガネ
は一瞬視線を交わして、少し難しい顔になった。困惑と切なさが入り交じったような。
「あまり、人と深くは交わらない男だったんだよ。ここから先は踏み込ませてもらえない
という一線があった。……その彼が、雪が見たいと自分の願いを口にしたことがうれしく
て、…一緒に見たいと言ってくれたことがうれしかった」
降る前にいなくなっちまって、それっきりなんだけどね。
そう言って彼女はぱんぱん、と手を二回叩いた。
「それだけさ。…言ったろう?たいした話じゃないって」
首をすくめてサザキとカリガネを見た岩長姫は、少し不思議そうな顔をした。
「…なんだい、二人して妙な顔して。…あたしの話が何かおかしかったかい?」
「…いや、…あのよ」
言いかけたサザキを
「…サザキ」
名を呼ぶことでカリガネが押さえようとした。だがサザキはカリガネを振り返って、
「知らないよりは知ってたほうがいいかもしれねえじゃねえか」
少し強い声で言い返す。
「…いったいなんだい」
岩長姫は一人、不得要領な顔でいる。
「…日向の、俺たちの里ではさ。…初雪を一緒に見た恋人同士は幸せになるって言い伝え
があるんだ」
サザキは真面目な顔でそう言った。…ふざけているのではない証拠に、傍らのカリガネも
かすかにうなずいて、…それからふいと顔を背けた。彼は、岩長姫にそれを伝えるべきで
ないと思っているのだろう。
「…だから、その、…初雪を一緒に見ようって誘うってことはさ、つまり…」
言いにくそうに口ごもるサザキを見て岩長姫は少し目を伏せたが、…すぐにきっぱりと顔
を上げ、笑った。
「昔の話さ。…そう言っただろう?」
「……あー、…うん」
なんだいなんだい、そんなしょぼくれた顔をおしでないよ。
手を伸ばして、ばしん、とサザキの肩を叩く。ついでに、とカリガネの肩も叩いて。
「白状するとね、…そうかな、と思うこともあったよ。…だから雪が降る前に彼がいなく
なったときは少し寂しかった。……でもね、それで良かったんだと思う」
「なんで」
「だってさ」
岩長姫はまた笑う。
「せっかく一緒に初雪を見たのに、幸せな恋人になれなかったら、もっと寂しいじゃない
か。……彼は日向の一族が必要としている人間だったし、あたしも、中つ国から離れるこ
とは出来ない人間だった。もともと、叶いようもない恋だったんだろうさ」
今となっては、胸すら痛まない。ただ、雪を見ると思い出すだけ。
「年を取るのも、いいものだよ」
「…そんなもんかあ?」
サザキは楼台の卓に頬杖をついた。カリガネは静かに微笑んでうつむく。
雪は音もなく降っている。



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