第三章 海に降る雪

「寒いと思てたら、やっぱり雪になったねえ」
千尋の部屋で布をたたみながら、夕霧は外を見やった。
「千尋ちゃん、寒ない?もう一枚お布団、どこかから捜してきたげよか?」
「大丈夫、寒くないから。…それより夕霧の方こそ、寒くないの?結構薄着だよね」
「寒いのには慣れてるんよ。もともと寒いところの出やから」
そう言って笑ったとき、ふと、ある話を思い出した。
「いいこと教えたげよか」
悪戯っぽい顔でそう言うと、千尋が目を丸くして、首をかしげる。少女らしいその仕草が
かわいらしい。
「…なあに?」
「うちも友達に教えてもろた話やけどね。その子の生まれた国では、初雪を一緒に見た恋
人同士は幸せになるって言い伝えがあるんやって」
ね、と肘で千尋をつつく。
「千尋ちゃんも、意中の人くらいいるんやろ?あとでこっそり誘って、この雪を一緒に見
たらええよ。…きっと幸せになれるから」
夕霧の言葉に千尋は曖昧に笑った。どこか痛そうな笑顔が気になって、どないしたん、と
聞こうとした夕霧の機先を、しかし、千尋が制した。夕霧のお株を奪うような意味ありげ
な笑顔で、
「ねえ、それより、夕霧にそのことを教えてくれた人って、夕霧の恋人?」
少女の他愛のないその問いに、夕霧は一瞬胸を衝かれた。脳裏をよぎる一つの笑顔。…そ
の笑顔を取り巻くたくさんの笑顔。
すぐに袖で口元を隠してころころと笑ってみせたけれど、自分はちゃんとごまかせただろ
うか?
「いややわあ。残念でした。そんなんとちがうえ。……ううんと、そうやねえ、…悪い友
達?」
「…悪い?」
千尋は不思議そうだ。聞き返されて、夕霧は迷った。…言うべきか、言わざるべきか。
……だが、なぜか、…彼女に伝えたい気がした。彼女の心が痛むだろうことは予想できた
のだけれど、…少しだけ、聞いてほしいと思った。
雪が、あまりに静かに降るから。
「そう。……だって、うちをおいて、もう会われへん遠いところへ行ってしもたもの」
遠い深い海の底へ。
嵐に襲われた船。ばらばらになった船体。木ぎれにつかまり漂流しながら、一人、また一
人と力を失い波間にさらわれていった仲間たち。
お前は生きろと、お前だけはと、…みな無慈悲なことを言い置いて。
だからこうして、自分は今生きている。姿を変えて、意地汚くも生きている。彼らの言葉
があればこそ。
詳しい事情は伝えない。けれど、口にした曖昧な言葉だけでも何か察するところはあった
だろう。…千尋が少し、暗い顔になって、
「ごめんなさい」
と言ったので夕霧は慌てた。
「辛いこと、話させてしまった」
「ええんよ。ちがう、悪いのはうちよ。…ほんとは、適当なこと言ってごまかすこともで
きたんよ。…そうしたほうが、千尋ちゃんを傷つけへんってわかってた。……でもね、聞
いてほしかったんよ」
ごめんね。
「こんなふうに雪が降るから。少しだけ聞いてほしいって、うっかり思ってしもたんよ。
……ごめんね」
千尋は少し上目遣いになって、夕霧を見る。
「…話して、…少し楽になった?」
「…すっごく、楽になった」
微笑むと、ふわりと、少女の顔もほころんだ。
……ああ。
……ああ。…優しいね、君は。…行きずりにも等しい私の痛みまで、自分のもののように
感じてくれるのだね。
夕霧が、その笑顔にみとれていると、あのね、と今度は千尋の方から話し出した。
「私も一つ、初雪の言い伝えを知ってるの。……初雪が降ってくる、その最初のひとひら
を受け止めることが出来たら、その人には幸運が訪れるんですって」
へえ、と言いかけて、…少し夕霧は苦笑した。
「…どうしたの?」
「ううん。笑うてしもてごめん。…ただ、…初雪の最初のひとひらを受け止めるやなんて、
その時点で運を全部使い果たしてしまうんやないかしらって、ちょっと思って」
「……」
千尋は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
それから唐突に吹き出す。
「ほんとだ!」
「でしょ?」
二人で、けらけら笑い転げる。笑っていると、心に温かいものが満ちてくる。あの冷たい
海を忘れてしまうような、心地よい温かさ。
忘れることは決してないけれど。…少しだけ癒されることを、許してほしい。
雪は、少女の舞いのように、ふわりふわりと降りてくる。


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