第四章 雪の降る音

「雪だよ!ゆっきだよー!」
子犬が走り回って雪の到来を告げている。その声は、倉庫で資材の確認をしている二人の
元にも届いた。
「雪ですか。冷えるはずです」
布都彦がつぶやくと、道臣は書き付ける手を止めて穏やかに微笑んだ。
「あとは私一人でも片付きますから、あなたも雪を見に行っていらっしゃい」
布都彦は丸い目をくるん、といっそう丸くして、いいえ、と首を横に振った。
「あと少しならなおのこと、お手伝いさせてください。…それから、雪見にご一緒しまし
ょう」
言ってからおずおずと、ご迷惑でしょうか、と問うてくるので、道臣は笑って首を横に振
った。
「迷惑だなどと、とんでもない。…では急いで片付けて、雪見と行きましょうか」
「はい!」
そのいそいそとした様子は道臣にどうも何かを思い出させる。…雪の気配と、熱心な子供。
……何だ?
「…ああ」
思い出した。忍人だ。
あの日の忍人も、一生懸命に道臣の手伝いをしてくれていて、それで、
「ゆっきだよぉ!」
ばん、と扉が開いて、足往が顔を出した。
「ああ」
「聞こえてましたよ、あなたの声が。教えてくれて、ありがとう」
布都彦が生真面目にうなずき、道臣がゆるりと礼を言うと、えへへと笑って足往はまた駆
けていった。布都彦はその様子を見て嘆息したが、道臣はくすくすと笑う。
「…道臣殿?」
「ああ、いえ、すいません。あの日もこんなふうだったなと思って」
「あの日?」
「ええ。…ああもう、十年近くも前の話になるのですね。忍人が今のあなたよりも幼かっ
た頃ですから」
「岩長姫のお屋敷でのお話ですか?」
「ええ」
道臣がうなずいたとたん、ぱあっと布都彦の顔が輝いた。
「お聞かせください、ぜひ!」
道臣は思わず苦笑する。
「あなたは、あの屋敷の話を聞くのが本当に好きですね」
「道臣殿が楽しい話ばかりを聞かせてくださるからです」
大真面目に布都彦は言った。布都彦には苦笑を返しながら、道臣はこっそりと脳裏にいろ
いろな逸話を思い浮かべる。そんなに楽しい話ばかりでもなかった気がするのに、…何故
だろうか、今思い出すのは確かに、なつかしい、いとけない、優しい話ばかりだ。耳にこ
だまするのは、いつも彼の笑い声。大好きな笑い声。
「うらやましいです。私もその場にいたかった」
布都彦のしみじみとした声に、少しだけ胸が痛む。
布都彦はどれだけ、彼の笑い声を聞いたことがあるのだろうか。彼が物心つく頃にはもう、
羽張彦は橿原宮にやってきていたはずだ。そして、宮から自らの里に戻ることなど、一年
に一度あればよいほうだったろう。
もしもそれが叶うなら。ただの昔語りよりも、あの明るい笑い声を布都彦に聞かせたい。
誰の心をも気持ちよくほどけさせるあの声を。
叶わぬことだとわかっている。…自分に出来ることはただ、少しでも多く羽張彦のことを
布都彦に伝えることだけだ。
だから道臣は語る。思い出すたび、布都彦に請われるたび、語る。自分の知る羽張彦を。
大好きだった彼のことを。
「…では、先に最後の片付けをしてしまいましょう。それから一緒に雪を見に行きましょ
う、布都彦。雪が降ったときの話なので、雪を見ながら話すのがふさわしいように思いま
す」
「はい!」
布都彦は張り切って、残る矢の束を数え始めた。中途半端に残っている矢は、十条ごとに
束ねる。同じ作業をしながら道臣はふと、
「そういえば、…あなたは、初雪の言い伝えというのを知っていますか?」
「初雪の言い伝え…ですか?」
「ええ。初雪の一番最初のひとひらをつかまえると幸運になる、とかいう」
布都彦はくるんと目を丸くして、いいえ、と首を横に振った。
「存じません。…私の生まれ育った場所の言い伝えではなかろうと思います」
「…そうですか」
「それがどうか?」
「ああ、ええ、…そういう言い伝えにまつわることなのですよ。あとでゆっくりお話しし
ましょう」
はい、と素直にうなずいてまた作業に戻る布都彦を微笑んで見守りながら、道臣は首をか
しげた。初雪の言い伝えは、橿原宮のあたりで伝わっているものでもない。
いったいどこから聞き込んできたんでしょうかね、羽張彦は。
ゆるり、首をかしげ直す道臣の耳に、ぱらぱらというかすかな音が届いた。
ほんのかすかなそれは、雪が船体に当たる音だ。…雪は少し、激しくなったのかもしれな
い。


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