第七章 此処に降る雪

忍人は、誰もいない野原の真ん中で、ぼんやりと空を見上げていた。
少し激しさを増した雪は、後から後から舞い降りてくる。その白い花びらを、黙ってただ
見つめていた。
こうしていると、たくさんのことが思い出されるような気がする。…けれど、そのたくさ
んのことは、消える雪と共にまた消えていってしまう。
ひどく静かな気持ちで、忍人はただ、空を見上げていた。握られた両の拳が、だらりと体
の脇に垂れている。
…その頬がふと、ぴりりと震えた。
かすかに枯草を踏む足音が聞こえる。
振り返ると、白い息を吐きながら那岐が近づいてくるのが見えた。
声が届く距離まで近づいて、那岐は少し拗ねた顔をした。
「なんでこんなとこにいるのさ」
忍人は少し笑って首をすくめる。
「堅庭で雪を見ていたんだが、人が増えてきたので。……少し、一人で雪を見たい気分だ
ったから」
その答えに、那岐は少し困った顔をして、
「…悪かった。じゃあ」
くるん、ときびすを返した。そう来ると思った、と、忍人は右手で那岐の袖を引いて、す
たすた歩き出そうとした彼の動きを止めた。
「いいんだ。…少しだと言ったろう。…もう十分、一人の雪は満喫した」
肩越しに振り返った那岐は、自分の袖をつかまえている忍人の手にそっと触れて、小さく
笑った。
「…ほんとだ。…手がすごく冷たい。…いつから外にいたの」
「夕食をとってすぐ堅庭に出て、…まあ、ほぼそれからずっと、かな」
「そりゃあ冷える」
くすくすと那岐が笑う。
「雪雲で見えないけど、もう寝待月が昇ろうかって時間だよ。…ほんと、辛抱強いよね、
忍人」
「辛抱強いわけじゃない。…ぼうっとしていただけだ」
二人笑い合って、…那岐がふと、視線を斜め下に流した。
「忍人。…左手、何か持ってる?…なんか、ずっと握りしめてるけど」
問われて、忍人はその手を自分の胸の高さに持ち上げた。言おうかどうしようか、かすか
逡巡する気配に、那岐が、無理して言わなくていいよ、と伝えようとしたとき。
はらり、と、忍人がその掌を開いてみせた。
掌の上には、何も載っていない。両手で刀を使う彼らしく、少したこがある。それだけだ。
那岐が戸惑って忍人の瞳をのぞき込むと、彼は柔らかく笑った。
「…初雪の」
「…え?」
「初雪の、一番最初のひとひらをつかまえると、幸運が訪れる、らしい」
どこかで聞いた話だ、と思いながら、那岐はまじまじと忍人の掌を見た。彼が何の所以も
なしにそんな話をするはずがない。
「…つかまえたのか?」
そっと問うと、小さな頷きが返ってきた。
「…ごめん」
思わず那岐は謝っていた。忍人は驚いた顔で、何が、と問い返す。
「だって、せっかくつかまえたのに」
僕が不用意に聞いたせいで開かせてしまって、とぼそぼそつぶやくと、忍人は破顔一笑し
た。
「別に、…つかまえた雪はもうとっくに溶けていた。開くきっかけがなかっただけだ。君
が気にすることはない」
手を開いたくらいで逃げていく幸運なら、幸運の意味がない。
「それに、…雪ひとひらをつかまえなくとも、俺はもう、幸運を得た」
静かな、夜の海の色をした瞳が、まっすぐに那岐を見つめる。
「何のしるべもなく、ただ無闇に戦う日々が終わったあの日に。…二ノ姫という希望の光
を見いだして、共に戦う仲間を得たあの日に。…俺は既に幸運をつかんだんだ」
忍人には珍しい、素直な告白だった。那岐はじわりと熱くなる胸をそっと押さえる。夜の
海のような瞳に、どこか怖じた自分が映っていることを意識しながら、…何気ない声を装
って、問う。
「…その幸運の中には、…僕も入っている?」
忍人は片眉を上げた。…ゆるり、その頬がほころんで。
「…無論」
さらりとした肯定に、言わでものことを問うた自分が恥ずかしくなって那岐が少しうつむ
くと、一歩、忍人が自分に近づく気配がした。
体温が伝わるほどの近さで、…けれど、触れはしないで。
那岐の耳朶の中に、その優しい声が落ちてくる。
「…君も、ではなく」
かすかに、かすれた声。
「君に会えたことが、俺の幸運なのだと思う」
姫の存在は俺にとっての希望。君の存在は俺にとっての幸い。
神に形式以上の感謝を捧げたことはないが、君たちに巡り会わせてくれたことだけは、素
直に心から感謝している。
那岐は手を広げた。手を広げて、忍人がどうしても踏み込んでこないその距離を、自分か
ら縮めて、…彼を抱きしめる。
忍人がすっと息をのむ気配があった。が、身じろいだり逃げたりはしなかった。だから、
那岐も放さない。…この大切な、大好きな人を。
「…手だけじゃなくて、体もすごい冷たい、忍人」
「君の体温が高いんだ」
忍人の返答が的外れに思えて、那岐は笑った。那岐はどちらかといえば平熱が低い方だ。
自分の体温が高いというならそれは、…大切な人をこの手に抱きしめて、熱が上がってい
るからだろうと思う。
「僕はさ」
忍人の肩に額を預けながら那岐は小さくつぶやいた。
「君に、帰ろうって言いに来たんだ。冷えるから船に戻ろうって。…それなのに、どうし
てかな。…もう少しだけ、ここにいたい気がする」
この雪を、二人で見たい気がする。
「俺も」
忍人の静かな声が、那岐の耳元で震える。
「もう少しだけ、君とここにいたい」
ここに降る雪を、見ていたい。

雪は少し落ち着いた。
しんしんと音もなく降ってくる。
船にも、野原にも、等しく同じように。
きっと、明日の朝には積もるだろう。
そして、いつかあの国にも。



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