冬の光、冬の闇。

千尋は竹簡を繰る手を止めて、指先をこすり合わせた。傍にいた采女がすぐにその仕草を
見とがめ、声をかける。
「陛下、お寒いのではありませんか。温石を今持って参ります」
千尋は首を振った。
「大丈夫。…冬至の前に温石を使っていては、これから先が思いやられるわ」
「ですが…、…ではせめて、白湯を持って参ります。少しでもお身体が温まりましょう」
「……。…そうね、お願い」
一礼して、采女はすっと部屋を出て行った。誰もいなくなった部屋で、千尋はようやく堂
々とため息をつく。
この世界には、あちらで使い慣れた暖房器具はない。ファンヒーターやエアコン、ストー
ブやこたつですら。
暖房器具だけではない。灯りは獣脂を使った火皿がせいぜいで、夜でも皓々とまぶしい灯
火はないし、紙もない。お茶だって、飲み慣れた緑茶ではなく、炒った豆や穀物に湯をさ
して呑むのが一般的だ。
まだ他にもないものがある。
………それは、誕生日だ。
千尋は、大切な人の特別な日を祝いたかった。親しく接する人が少なかった分よけいにそ
う思うのかもしれない。だから、豊葦原に戻ってきて、身近に接する人が増えたのが嬉し
くて、最初の内はいろいろと聞いてまわったりもした。だが、誰からもはかばかしい答え
は返ってこない。
それが当たり前なのだ。暦がよめるのは特別な知識を持つ人間だけ。日の昇る方向を見て、
そろそろ種まきの時期だとか刈り取りの時期だとかいう判断は必要だが、それが厳密に何
月何日であるかを知る必要はない。そもそも、年齢は一年の始まりに皆が一斉に一つとる
のだ。だから何日に生まれたかということはまったく重要ではない。結果、豊葦原に住む
人にとって、誕生日は特別な日でも何でもないのだ。そうと知って、千尋はようやく誕生
日捜しをあきらめた。
「入るよ」
涼やかな声に千尋ははっと我に返った。
声をかけた那岐は、声をかけたときには既につかつかと中に入ってきている。手に湯気の
立つ茶碗を持っていて、とんと千尋の前に置いた。
「…あれ?」
「預かってきた」
そのまま、千尋の傍らに椅子を引いてきて座る。
「偶然運んでくるところに行き合ったから、僕が運ぶよって預かったんだ。ついでに、し
ばらく千尋と話があるから人払いを頼むとも言っておいた」
「人払い?…何か深刻な話?」
千尋が目を丸くすると、那岐はけろりとした顔でいや別に、と言った。
「采女たちがいない方が、千尋も気を抜いて休憩できるんじゃないかなと思って」
「……那岐」
「嘘も方便だよ」
平然と言って伸びをする那岐を見ながら、千尋は苦笑して同じように伸びをした。椀をか
かえていると、ようやくかじかんでいた指が動き始める。たちのぼる湯気を頬に当てると、
かすかに蜜柑の匂いがした。采女の心遣いか、あるいはさりげなくそっぽを向いている那
岐のそれか。蜜柑の皮を干して作る陳皮は彼や遠夜が作る薬の一つだ。風邪の予防にいい
という。
「蜜柑の匂いをかぐと、冬が来たなって感じがする」
「確かに。…あとはこたつだな」
向き直った那岐が少し猫のような表情で言うので、千尋は吹き出してしまった。こたつに
丸くなってみかんを抱え込む那岐。なつかしい風景だ。
「…何」
那岐が少しむっとした顔になったので、千尋はあわてて首を横に振り、
「冬と言えば」
と話をそらす。
「忍人さんて冬っぽいと思わない?」
「…」
話をそらされたと感じて那岐は一瞬鼻にしわを寄せたが、
「確かに」
すぐに変えられた話題に乗ってきた。
「冬の夜って感じがする。静かで、傍にいると落ち着く」
那岐の言葉に、千尋は二度瞬いた。その仕草に、逆に那岐が瞬きを繰り返す。
「…何」
「あ、ううん、…夜なんだな、と思って。私は冬の朝のイメージなの。他の季節よりも光
が鋭くて、でも綺麗なところが似てるなって」
那岐はしみじみと千尋を見た後で、小さな嘆息と共に笑った。
「そうか。千尋にとって、忍人は光なんだ。だから忍人にとっても千尋は光なんだな」
那岐はその言葉の後にまだ何かぼそりと付け加えた。僕とは違う、と言ったような気がし
たが、声が小さくて千尋には聞き取れなかった。…なんとなく聞き返すこともはばかられ
るようで、千尋が二の句に困っていると、突然那岐が「冬はつとめて」と枕草子の一節を
暗唱し、そういや千尋、とまた話題を変えた。
「最近は誕生日調査をしないんだね」
「…無意味だってわかったから」
首をすくめる千尋に、確かにね、と笑ってから、
「でもせっかくだから一つ教えてあげるよ」
那岐はどこか悪戯めかした顔で言った。
「忍人は冬至の生まれだって」
「…とう、じ?」
「そう。…冬至は毎年ずれるものだけど、生まれ年から逆算すると、忍人の誕生日は12
月21日ってことになるんだな。…もっとも、そういう細かい日付よりも、冬至に生まれ
たという事実の方が、忍人には印象深いようだけど」
昼が一番短い日。夜が一番長い日。
とうじ、ともう一度言葉を噛みしめるようにつぶやいて、千尋はもうすぐやってくるその
日を思った。
夜が一番長い日に、夜の重さ厳格さを美しく感じるか、昼が一番短い日に、昼の光の短さ
強さを崇高に受け止めるか。
いずれにせよ、そう感じること自体が忍人とぴったり重なる気がする。
「…こういうのも変だけど、…なんだか、忍人さんらしい誕生日ね」
「…僕もそう思うよ」
ふと、部屋が静まりかえった。
まるでそれをねらい澄ましたかのように、聞き慣れた足音が近づいてくる。二人ははっと
して顔を見合わせた。
足音は部屋の前でぴたりと止まり、入っても良いだろうか、と静かな声が断りを入れる。
…忍人だ。噂をすればだと、千尋は那岐とかすかに視線を交わし、微笑んでから背筋を正
して、冬の申し子の青年を招じ入れた。



忍人×千尋の方はこちら→千尋<光>

那岐×忍人の方はこちら→那岐<闇>

なお、千尋バージョンの忍人と那岐バージョンの忍人は全くの別人格とお考えください。
決してふたまたではございません……。