惑う

ふと気付くと、森の中を歩いていた。
見覚えがあるようなないような森だ。…高千穂では森に隠れての奇襲戦が多かったが、熊
野に来てからはそんな機会はほとんどなかった。たいがいは街道沿いに悠々と行軍できて
いたはずだ。
……では、…ここは、どこだ?
周りには誰もいないようだ。
…自分はいつからここにいる?
忍人は、ふと不安になって腰を探った。
破魂刀はいつも通りそこにある。ふれると、びいん、と嫌な音で鳴った。
一瞬刀に視線を落として、また顔を上げたとき。前方を、金色の光がよぎった気がした。
「……?」
こぉん。
また破魂刀が鳴った。今度は、先刻の不快な音とは少し様子が違う。
目をこらす。前の方の木陰に、見たことのあるような姿が見え隠れする。
……金の髪。…一人、…二人?
二人とも、肩のあたりでふっつりと切りそろえた髪をしている。一人は男性、…もう一人
は女性。けれど、輪郭や醸す雰囲気がとてもよく似ている。
男性の方がちらりと振り返った。その、楓の若葉越しに見た太陽のような、澄んだ緑色。
「……那岐?」
思わず声が出た。
その声に、二人が足を止めた。
女性も肩越しに忍人を振り返る。蒼い瞳。高千穂のあたりで見かけた、南の海のような。
「二ノ姫」
そう呼びかけると、二人は身を折ってくすくす笑い出した。
「……虎狼将軍ともあろう方が」
「我らをどなたと間違えておられるのか」
…その声。
洞窟の中で響いた、あの声と同じものだ。
「お前たちは…」
ふたりはふわりと舞うように動いて、するりと忍人の目の前に立った。
「我らはいつもあなたと共にあるではないか」
「我らはあなたのものではないか」
「「葛城将軍」」
二人は声を揃えた。
ふぅ、っと、悪寒のようなものが忍人の背を走った。
「…破魂刀、か」
見れば、彼らの顔の細かい造作は姫や那岐とは似ても似つかなかった。瞳も口元も表情に
乏しく、絵に描いた人の形のようだ。遠くから見かけたときは、うり二つだと思ったのに。
いや、だが。
「…お前たちは、…そんな姿をしていたか…?」
忍人はおぼろな記憶を探るように、訝しむ声で言った。
「……以前会ったときは、髪はもっと黒かった。…瞳の色も、もっと暗かったのに」
ふふ、と女性の方の破魂刀が笑った。
「我らには、我らの人としての姿は見えません。目の前にいる彼の姿でさえ、私には金色
に光る刀にしか見えぬのです。……我らを人と見るのは、あなたが人だからでしょう」
「仮に獣が我らを持てば、我らの姿は獣と変じよう。……そういうものだ。…しかし」
男性の方の破魂刀が、かすかにおそろしいものを含んだ笑みを浮かべた。
「我らの姿を変じたと感じるなら、…将軍よ。…それは、あなたの望む死の姿が明確にな
ってきているということだ」
女性の破魂刀が同じ笑みを浮かべて言葉を添える。
「死の間際、あなたを迎えに来る我らの姿を、自分の望ましい姿形のものに投影しておら
れるのですよ。あなたにとって、死は想像ではなく、現実となりつつある。……つまり」
そこでふと、言葉を切って。
「「それだけあなたは、死に近づいたということ」」
破魂刀たちは歌うように声を揃えた。
恐ろしい宣告だが、忍人に衝撃はなかった。やはり自分は死に近づいているのだな、と納
得しただけだった。
ただ、…そうか、自分が死ぬとき、彼らは那岐と姫の姿で迎えに来るのだな、と、ふと思
った。
……そう思うと、なぜだか、心の中の焦りが少し和らいだ気がした。
…なぜかは、自分でもわからなかったけれど。
「…ともあれ、あなたはまだ命を削りきったわけではない。だから我々も、今ここであな
たの命を取るようなことはしない」
「ここは、黄泉の国の入口に近い場所ではありますが、まだ中ではありません」
「「ここから戻りなさい」」
三度破魂刀は声を揃えた。
「あなたを呼ぶ声に耳をすましなさい」
「呼ぶ声の聞こえる方へ進めばよい」
森に霧が流れてくる。霧にまぎれてゆっくりと、二人の姿が薄れていく。
彼らの姿が薄れるに従って、……と、……しひと、……と、…誰かが忍人を呼ぶ声が聞こ
えてくる。
「……いずれ、そう遠くない未来に」
「会いに行こうぞ、…将軍」
霧の中からその言葉だけを残して、破魂刀たちは消えていった。

「……忍人!」
はっ、と忍人は我に返った。そしてぶるりと肩をふるわせる。
「…こんなところで寝てるなよ」
むっつりと傍らでつぶやいているのは那岐だ。…では、今自分を呼んでいたのも那岐の声
だったのか。
「将のたるんだ姿は兵の士気を鈍らせるんだろ」
はーあ、とわざとらしいため息を那岐がつく。
「第一、こんな冷たい風が吹く堅庭で昼寝する馬鹿がどこにいるんだよ。…これも鍛錬と
か言ったら、笑うよ、僕は。…寝るなら自分の部屋で寝ろよ」
「君の言うとおりだ」
忍人はやわらかく笑って立ち上がった。…弾みで、りぃん、とかすかに破魂刀が鳴る。
比較的暖かい熊野だが、風はもう冬のものだ。ほのかに潮をふくんでいるので、おそらく
は海からの風、山を下ろす風よりはいくらかあたたかいだろうが、それでも冷たいことに
はかわりない。
衣の襟を気持ちかき寄せて那岐を見ると、彼はなにやら剣呑な瞳で、忍人の腰のあたりを
見つめていた。
「…那岐?」
「…あんたさ。…僕が使うなっていったら、…その刀、使うのやめる?」
「……」
忍人は少し眉をひそめて、いったい那岐は何を言い出したのかと首をかしげる。すると、
那岐は勝手に言葉を続けた。
「だんまりか。…じゃあ、…じゃあさ、千尋が使うなっていったら?…軍の最高責任者に
使うなって言われたら、使うのやめる?」
「………」
とっさに忍人が返答に詰まっていると、那岐はまたさっさと話を続ける。
「千尋でもだめなのか?…なんで?」
「……那岐」
那岐の様子がおかしい。忍人は眉をしかめた。…なんだか、とても、…とても。
「…那岐。君がそんな顔をすることはないだろう」
「僕がどんな顔をしてるって?」
「……痛そうだ。…とても」
泣き出しそうにも見えたが、それは言わずにおいた。那岐が怒り出しそうな気がしたから
だ。
だが、それでも那岐は怒り出した。
「痛いのは僕じゃない、あんただ。……そんなもの身につけていて、痛くないはずがない」
鬼道使い故、呪具の気配には敏感なのだろう。…忍人はなだめるように笑う。
「…そうだな。……でも、痛い方が何もないより楽なんだ」
人をたくさん殺して、自分の体になんとも異変がないよりは、痛い方が。
「…そんな優しい顔して言うな」
那岐はきゅっと眉を寄せた。
「忍人は馬鹿だ。…ほんと、馬鹿」
もっと楽に生きればいいのに。そんなに自分を痛めつけること、ないのに。
言外の那岐の言葉が伝わってくるから、忍人はまた微笑む。
「君は意外と苦労性だ」
「忍人にだけは言われたくない」
……それはもっともだな、と思わずうなずいてしまう。
「……どうせ、僕の言うことなんかあんたは聞かないだろうけど。……もうあんまり、使
うなよ、…その刀の力」
「……」
「返事!」
「……ああ」
「武士の情けで、絶対使うなとは言わないでやったんだから。…少しは努力しろよ」
もう行こう。…風が冷たい。…風早のところに行って、何か暖かいものでも飲ませてもら
おう。
那岐はぐいぐいと忍人の手を引いた。そんなに引かなくてもついていく、と言っても聞か
ない。まるで駄々っ子の子供のようだ。
忍人はふと思う。
この声とこの手が。……いつか俺を迎えに来るのだろう。
「…たぶん、…君が」
「…?何か言った?忍人」
「…いや、なんでも」
忍人はゆるゆると首を横に振った。
破魂刀が一振りだけ、こぉん、と不思議な音を立てた。


次へ前へ