名草
「うわ、本当に通り抜けた…」
千尋は思わず後ろを振り返った。仲間たちが少し不安そうな顔で見守っている。
「二ノ姫、あまり時間がない。ぐずぐずできないぞ」
先頭を行く忍人が、千尋が足を止めたことを見とがめてぴりりと声を掛けてきた。
「あ、ごめんなさい」
にこ、と微笑むのは遠夜だ。さりげなく足取りをゆるめ、千尋を自分と忍人の間に挟むよ
うにする。
隊列が整ったのを見て取って、忍人が歩き出した。
結界があるとはいえ、それなりに人通り(土蜘蛛通り?)はあるのだろう。道はよく踏み
固められていて歩きやすい。三人は黙々と歩く。
…が、しばらくいったところでまた千尋は叫んでしまった。
「あー!」
「…今度は何だ、二ノ姫」
忍人は前を向いたままだが、足を止めた。右手があがっているのは、おそらくその手で額
を押さえているからだろう。
「あの、土、土って、…どんな土がいいんでしょう。…私、わからないんですけど」
ちらり、と遠夜を振り返ってうかがうと、遠夜はおっとりとただ笑って小首をかしげてい
る。…どう見ても、土器に使う土について詳しいとは思えない。…忍人さんだってきっと、
と千尋が思っていると。
「…そんなことか」
あっさりと忍人に呆れ声で言われてしまった。
「心配しなくても、皆が土器にはこれがいいと取りに来る土だ。掘ったあとが必ずあるは
ずだ。それを探しながら歩けばいい」
「……あ」
思わずぽんと手をたたいてしまう千尋である。
「…そ、そっか。…そうですね」
「それよりも気になることがある」
忍人は歩きながら少し声を低くした。
「皆が取りに来ようと思うはずの土が、なぜ土蜘蛛の結界の向こうにあると思う?」
「……あ」
千尋はまた同じつぶやきをこぼしてしまった。芸がない、と自分でも思うのだが、こぼれ
たものはしかたがない。
千尋が思わず遠夜を振り返ると、遠夜はあたりをきょろきょろと見回しては少し顔をしか
めている。
忍人の言葉が聞こえていなかったのか、と思ったが、そうではないようだ。千尋の頭の中
に、遠夜の答えが伝わってきた。
『ここ、少し危ない』
「え。…危ないって、何が?」
千尋が言う言葉は忍人にも聞こえる。忍人は足を止めて二人を振り返った。
『ワギモは前通ったことがある。…覚えてる?…土蜘蛛には土蜘蛛の通り道がある』
「ああ、…火神岳から忍人さんのところにいくとき通った道?」
『そう』
こっくり遠夜はうなずいた。ちらりと忍人に視線を投げたのは、忍人にその道のことをど
う説明しようかと迷ったからのようだ。だが忍人は無言で肩をすくめた。それを、話を続
けていいのだと解釈して、遠夜はまた話し始めた。
『あの道は、普通は土蜘蛛でなければ見つけられない。けれど、時々、勘がいい人にも見
えることがある。…見える人は、その道に迷い込むことがある。…けれど、その人たちに
出口が見えることはほとんどない』
「入れるけど、出られない…ってこと?」
『そう。…そういう土蜘蛛の道が、ここにはたくさん開いている。古いにおいはしない。
昔からの道じゃなくて最近開いたものがほとんど。…たぶん、中つ国で戦いが始まったか
ら、小さき神たちや妖したちが、戦いを逃れるために開けたのだと思う』
「……人の戦いで、神様や妖しが傷つくことがあるの?」
『戦いで傷つけられることは少ないかもしれない。けれど、戦いが起これば荒魂が増える。
荒魂には、妖しを傷つけることが出来る』
千尋はぐっと唇をかんだ。
人の世の戦いは、人だけを傷つけるわけじゃない。山が焼かれれば、草も木々もそこに住
む動物たちもみな等しく傷つく。そして、戦いから生まれた荒魂がまた誰かを、人を、妖
しを、小さき神ですら、傷つける。
だから。私はこの戦いを止めなければならない。
「…姫」
遠夜と千尋の話が一段落したと見て取って、忍人が話しかけてきた。
「遠夜は何と?」
「ええと、…ここには土蜘蛛の通り道っていうのが最近たくさん開いたんだそうです。普
通は土蜘蛛にしか見えない道だけれど、まれにその道が見える人がいて、迷い込むことが
あるって。でも、迷い込んだ人はたいてい出られないって」
遠夜はこくん、と深く一つうなずいた。
『だから、人が入ってこられないように土蜘蛛の誰かが結界を張ったのだと思う』
「だから」
遠夜が言ったことをそのまま通訳しようと千尋が口を開きかけると、
「結界が張られたんだな。なるほど」
すでに忍人は意図を正しく理解していて、千尋の言葉をあっさり先取りした。
「でもじゃあ、入ってきちゃった私たちも迷うかもしれない?」
千尋が少し眉をひそめると、
「いやそれは」
『それは大丈夫』
忍人の言葉に遠夜の声が重なって千尋には聞こえた。
遠夜が何か言ったことは忍人にもわかる。何を言いかけたのか、と、忍人が彼の顔をうか
がうと、遠夜はおっとり笑って、そ、と忍人に言葉を譲る。肩をすくめて、忍人は先に口
を開いた。
「我々には遠夜がついている。先頭を歩いているのは俺だから、もしかしたら迷い込むか
もしれないが、そしたら遠夜に先に立ってもらえばいい。出口を見つけてくれるだろう」
『それに』
遠夜が付け加える。
『忍人には見えない。…いや、忍人は見ない』
「忍人さんには見えないの?」
こっくり、遠夜はうなずいた。
『那岐なら、もしかしたら迷い込んだかもしれない。でも忍人には見る力がない。だから
迷わない』
「那岐なら迷うかもしれないけれど、忍人さんは見る力がないから迷わないって」
少し決まり悪そうに忍人は首の後ろをかいた。
「…まあ、そうだろうな。…俺は昔から、鬼道の関係はからきしだから」
『忍人はそれでいい』
遠夜が少し強い声で言ったので、千尋は少し驚いた。
「なに?遠夜」
『ただ見えないというだけじゃない。たぶん見えても忍人は迷わない。それが忍人の強さ。
忍人はそれでいい』
遠夜の強い声が、千尋の心の底に響く。…遠夜がどうしても伝えたいことなのだ、と千尋
は思った。
「?」
忍人が遠夜の必死の顔を見て、首をかしげている。
「忍人さんは、見えないだけじゃなくて、もし見えても迷わないって。…迷わないことが
忍人さんの強さで、それでいいと遠夜は思うんですって」
どうか、遠夜の言っていることが誤解されずに伝わりますように、と、千尋は一つ一つの
言葉を丁寧につづる。
言い終えて、そ、と遠夜をうかがうと、遠夜はにっこり笑っていた。…間違えずに伝えら
れたのかな、と思う。
「…迷わないことが、俺の強さか」
忍人は小さな声で反復した。少し目を伏せ、うすく口元に笑みをはき。
「…ありがとう、遠夜」
礼を言われて、遠夜は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、すぐにふわりと、花
がほころぶように笑った。
「…足を止めている場合ではなかったな。急ごう」
忍人はすぐにいつもの厳しい表情に戻って、また歩き始める。さっきより少し足取りが早
くなっていて、千尋の足では少し小走り気味でないと同じ速度で歩けない。ちょっと遅く
歩いてください、と頼もうかな、と思ったとき、…忍人が足を止めた。
「たぶん、ここだろう」
山の一角が少し広くなっている。その山肌が、明らかに人の手によって掘り取られていた。
少し赤みのある土に触れると、すでにねっとりとした質感がある。
「思ったより近くてよかったです」
千尋が少しほっとして言うと、
「…すまない。…君には少し歩くのが早かったな」
気付かれていたようで、忍人が短く謝ってきた。
「道はまだ山頂に向かって続いているようだ。…すまないが、姫と遠夜はここで土を集め
始めていてくれ。もしかしたらこの先にまだ違う採土場所があるかもしれない。念のため
に確認してくる」
「あ、はい。…でもあの」
もしかして迷ったりしたら、と、千尋が声を上げかけると、忍人がさらりと言う。
「大丈夫だ。…俺は迷わないそうだから」
えーと、それは、と千尋が言い返す言葉に困っていると、
『油断は禁物』
遠夜が心配そうに釘を刺す。
「…遠夜が、油断は禁物って言ってますよ」
通訳すると、忍人は亀のように首をすくめた。
「…的確な忠告だ。肝に銘じる。…すぐに戻る」
忍人は軽く手を挙げると、そのまま足早に山頂に向かって歩いていった。背中を見送って、
千尋はふと気付いた。既に空には夕闇が迫っている。東の空はもはや夜空に近い。
「忍人さんが急ぎ足になるわけだ。…こんなに時間がたってたんだ」
『秋だから』
せっせと土を掘り始めながら遠夜が言う。
『余計に早い』
「うん、そうだね」
千尋もあわてて遠夜の隣で掘り始めた。…けれどついつい、空を見てしまう。
空が西から東へ、美しいグラデーションを見せている。目に鮮やかなオレンジ色が、やや
桃色がかって薄紫へ、濃い紫へ、紫紺色、そして深い藍に沈む。
その深い藍色を見ていると、山を昇っていった人を思い出す。忍人の髪の色は、黒いと言
うよりはやや青みがかかっているように見えて。
「…夜の空の深いところの色に、似てる」
つい口に出してしまったようだ。遠夜が、
『何のこと?』
とおっとり尋ねてきた。
「あ、ううん。…あの東の空の、あのあたりの色。…忍人さんの髪の色に似てるなあって、
ちょっと思って」
土に汚れた指で空を指すと、遠夜も土を袋に移しながら千尋が指したところを見て、ああ、
とうなずく。
『本当だ。…忍人の髪の…』
言いかけて、遠夜は何かに気付いた様子で一瞬はっと顔をこわばらせる。
「…?」
『…ううん。…そう、あれは忍人の髪の色で、…忍人の魂の色だ』
「…たましいの、いろ?」
…魂って。
「…見えるの?」
『俺にはよくは見えない。エイカのように力があれば、色だけでなく形やその消えるとき
までわかるみたいだけど』
さらりと遠夜が言うので聞き逃しそうになったが、…魂が消えるときがわかるというのは
つまり、その人が死ぬときがわかるということではないだろうか。
ふう、っと背中が寒くなった。
ふるりと頭を一つ振る。
『ワギモ?』
「…なんでもないよ、遠夜」
『ならいいけど』
千尋は一生懸命土を掘る。…けれど、土を掘るという作業は手は使うけれどもどうにも頭
を使わない。掘った土を袋に入れる。また掘る。また入れる。手はさくさくと動くけれど、
頭の中では、魂が消えるときがわかる、という言葉がぐるぐるぐるぐると回って、怖くて。
どうしようもなくて。
「…ねえ、遠夜。…他の人の魂の色も見える?」
まだしゃべっている方がましだと思った。
『…うん』
千尋の様子がおかしいとは気付いているらしいが、何が原因でとまではわからないのだろ
う。遠夜は心配そうな瞳をしつつ、おずおずと話してくれた。
『…ワギモの魂は真っ白だ。本当の白。何の色もついてない。…布都彦の魂の色も白いけ
ど、少し黄色みがかってる。朝の太陽の光の色に似ている。サザキは燃えている炎の芯の
ところみたいな、少し青みがかった朱色。那岐は、五月の木漏れ日の緑色。アシュヴィン
はなめらかで深みのある黒みがかった紫色。みんな、とてもきれいな色』
とても好き、と遠夜は笑う。話している内に、千尋の心配を忘れて幸せな気持ちになって
きたらしい。遠夜が見ている魂の色は、きっと本当にきれいなんだろうな、と思うと、な
んだか千尋も少しうれしくなってきた。先刻感じた怖さが、少し薄れる。
私でしょ、布都彦、サザキ、那岐、アシュヴィン……あれ?
「ねえ遠夜。…風早や柊は?」
「…風早と柊が、どうかしたか?」
千尋の問いに、不思議そうな声が重なった。
「…忍人さん」
話しに夢中になっていて、戻ってくる足音が聞こえなかったようだ。けげんそうな顔で忍
人が近づいてくる。
…忍人さんに魂の色の話をしたらどうなるんだろう、と一瞬千尋は考え、…なんとなく、
ばかばかしい、とか言われて呆れられそうな気がする、と首をすくめた。
「何でもないです。…上の方はどうでした?」
「やはりそこであっているようだ。ここから上にはそれらしいものがなかった」
忍人が淡々と報告して、二人の傍らに腰を落とした。
「二人ばかりにやらせてすまなかった。…後は俺が…」
言いながら袋をのぞき込んで、忍人は片眉を上げた。
「…ずいぶん、がんばったんだな」
袋は既に、ほぼ口の部分までいっぱいになっている。話しながら無意識に手を動かしてい
たので、袋の方の状況に頭が回っていなかった。
これだけあれば十分だろう、と忍人が袋の口を縛り、重さを感じさせないそぶりでひょい
と肩に担いだ。あわてて立ち上がった遠夜が袋を持とうとするのを空いた手で制する。
「先導を頼む。身軽な君の速度に合わせる。…急ごう、もう日が落ちる。姫も、疲れただ
ろうが遠夜の速さに合わせて歩いてくれ」
さあ、と少し追い立てられるように立ち上がらされるとき、忍人はそっと何かを千尋の手
のひらに落とした。…見ると、ぱっくり口が開いたあけびが一つ。
「…これ」
「気の早い実が一つだけはぜていた」
「一つだけなら忍人さんが…」
「甘いものは苦手だ。…行こう、遠夜」
素っ気なく言うと、忍人は遠夜を促した。うなずいて、遠夜が歩き出す。千尋が続くと、
しんがりを忍人が守る。
「…行きは気付かなかったが、もう山はすっかり秋なんだな。…こんな状況でなければ、
栗の二つ三つ集めようかと思ってしまった」
「栗ですか?」
好きかも、と声を弾ませると、
「糧食になる」
「……」
ぷっ、と笑ったのは遠夜だった。
『今、ワギモがとてもがっかりした』
「そんなこと、気付いてくれなくていいー!」
くっ、と忍人も笑う。
「遠夜がなんと言ったか、だいたい想像がつくな」
「忍人さんも、想像しなくていいんですー!」
むきー。
千尋が地団駄踏む勢いで怒っているのに、忍人はあっさりいつもの冷静さを取り戻して、
「…姫はまだ余力がありそうだ。…遠夜、もう少し足を速めよう。日が落ちきる前に、少
なくとも皆と合流だけはしたい」
などと遠夜に指示を出す。遠夜はまだ少し笑いながら、それでも指示通り足を速めた。慌
ててついていこうとして、慌てすぎて少したたらを踏んでしまい、逆に足が遅くなる千尋
に、
「急げ、姫」
忍人の指示は厳しい。
…けれど、わかっている。
行きに道を先導し、帰りはしんがりを守る忍人の意図、一番危険な場所にはまず自分が立
とうとする、それが、忍人の優しさであり、強さなのだということ。厳しさも、冷たいと
思えるほどの冷静さも全て、一番大切なものを、…誰かの命を、守るため。
…自分が正しいと思ったことを為すならば、迷わない。その、揺るぎのない強さ。
私には、その強さが必要だから。
手の中のアケビをそっと見る。
…このアケビを手渡してくれた、その手の温もりを、忘れない。…失わない。決して。
胸元を押さえながら先を急ぐ遠夜の後を、千尋は必死に追った。…後ろから追いかけてく
る忍人の足音に、安堵と、それから何故かかすかな不安とを感じながら。
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