海

その日、那岐と忍人は神邑へ向かっていた。千尋たちは先に向かっている。
兵たちに今日の鍛錬について指示を出していた忍人は、もともと、姫の足に合わせて歩く
ならすぐ追いつくからと、先に出るように頼んでいた。
那岐は寝坊だ。実はわざと寝坊した。
今日千尋は狭井君に会いに行くという。…那岐は、彼女が余り得意ではない。会うたび、
那岐のことをじろじろと計るように見るからだ。だから、起こしに来た千尋の声も聞こえ
ていたけれど眠くて起きられない振りをして、行かずにすませようとしたのに。
もうみんな出かけただろうと、堅庭に行ったら、忍人がいた。
「…いたのか。那岐」
驚いた顔で忍人が言ったが、那岐だって驚いた。
「どうして」
「用があった。…遅れたが、これから行くところだ。一緒に行こう」
「いや、僕は…」
行かない、と言おうとしたが、さっさと堅庭の出口に向かった忍人が、不思議そうな目で
自分を見て、…その目がなんだかとてもきれいで。
「……ま、いいか」
何がまあいいのか自分でもよくわからないが、那岐は忍人と一緒に行くことにした。

忍人は黙々と歩く。あまり無駄口をたたかない。だがそれは、嫌な沈黙ではなかった。む
しろ、とても楽な気持ちになる。
彼は日頃、狗奴の兵たちと共に歩いているので、行軍の最中はあまり一緒になったことが
なかったが、これからは時々一緒に歩いてもいいかもしれない、と思う。…狗奴の兵たち
は、ふかふかしていて好きだし。……ああでも、行軍の最中だと忍人のそばには必ず足往
がいるなあ。それはうるさそうだ……。
らちもないことをぐるぐると那岐が考えていると、ふと、忍人が足を止めた。
「……ここは」
「…?忍人?」
まだ風伝峠をこえたくらいで、神邑まではずいぶんある。
「…ここだったのか」
つぶやくなり、忍人は目の前の小道をたどって崖を下り始めた。
「ちょっと、忍人!?」
放っておくわけにもいかず、あわてて那岐もその後を追って崖を下った。
「何なんだよ、いったい。…ここがどうかした?神邑に行くんじゃないの?」
「どうせ今からでは神邑までに姫の一行には追いつけない。少し遅れるのもたくさん遅れ
るのも同じだろう」
涼しい顔で忍人が言うので、那岐は呆れてしまった。
「…あのね」
生真面目な人間ほど、開き直ると大胆なんだよなあ、と那岐が頭をがしがしかくと、唐突
に忍人が謝ってきた。
「…すまなかった」
「……へ?」
間の抜けた声を出してしまった。…けれど、謝られる理由に覚えがない。
「狭井君に会いたくないのだろう」
どきりとした。
たぶん、顔にも出たと思う。忍人は、申し訳なさそうな静かな笑みを浮かべた。
「…どうして」
……那岐の声が少し硬くなる。そんなつもりはないけれど、少し忍人を責めたい気持ちに
なってしまう。忍人は那岐の声に含まれる色に気付いているのかいないのか、いつも通り
の淡々とした声だ。
「…さっきから、明らかに君の足取りが重い。それに、君は確かに日頃寝穢いが、必要な
ときに起きられないことはない。…だから、わざとか、と。…先に気付けなくて悪かった」
「そうじゃない。…僕が狭井君に会いたくないって、どうして」
「ちがうのか?」
率直に問い返してくるところが忍人らしい。
「……ちがわないけど」
もごもごと那岐は答えた。忍人がふ、と笑う。
「…あの人を苦手でない人間の方が少ないだろう。…俺だって、正直あまり長時間ご一緒
したくはない」
「……へえ」
意外だった。忍人は、柊のことにせよ、当初の遠夜に対する態度にせよ、駄目なものは駄
目だときっぱり表に出すタイプかと思っていた。狭井君と対話している態度を見ると、そ
んなに嫌っているようには見えなかったのだが。
正直にそう言うと、
「別に嫌っている訳じゃない」
困った顔で返された。
「基本的には悪い方ではないと思う。中つ国のために、昔も今も尽くしておられるし。…
ただ、利用できるものは利用する方だから、話していて、これは利用できる情報かそうで
ないか、鵜の目鷹の目で計っているのが露骨に感じられることがある。…そういうところ
が、俺には苦手だ」
「……うん」
那岐がうなずくと、忍人は少しいたましげに那岐を見て、
「……君に関しては、…少しあからさまに過ぎるようだが」
低く呟いた。
「…気付いていたのか」
「ああも露骨では、気付かない方がおかしい」
忍人は苦いものをかんだような顔をしている。
那岐は足下の流木を少し蹴った。
「……僕が忌み子なのを、…彼女は知っているんだろうな」
今更蒸し返されるとは思わなかったけど、と自嘲気味に言うと、忍人がなぐさめるように
那岐の肩を一つぽんとたたいた。そしてふいに顔をあらぬ方へ向け、話し始めた。
「……俺の伯父は、一族の長をしている関係で、中つ国の政にも関わったことがある。…
その伯父が以前俺に言ったことだが、狭井君にとって、中つ国は我が子のようなものなの
だそうだ」
「……国が?」
「そう。国そのものが。…だから、国を守るためならなんでもなさる。……そのとき伯父
は、狭井君にとっては女王陛下でさえ、国のためのコマなのかもしれぬと言った。…俺の
あずかり知らぬことだが、伯父がそういうふうに思う事件があったのだそうだ」
ひくり、と那岐のこめかみが震えた。
女王陛下は、中つ国の臣下にとっては絶対的な存在のはずだ。だが、その女王陛下でさえ
彼女にとってはコマだったというのなら。
「…じゃあ、千尋も…!」
忍人は黙した。
……沈黙が、答えだった。
「………!」
那岐は、ぎり、と唇をかむ。胸の奥で何かがぎゅうっと熱くなるのを感じる。感情とも力
ともつかぬ何か。怒りのようでもあるし、心の持つ力そのもののようでもある。
その何かが、瞬間的に那岐の中から吹き出しそうになったとき、不意にぐいと忍人が那岐
の手首を掴んだ。
跡が残るのではと思うほど強く掴まれて、はっと那岐は我に返った。
……今、この一瞬、…忍人に手首を掴まれて我に返るまでのほんの一瞬。
……自分を御していたのは、自分ではなかった。
「………」
鼓動が早い。息が荒い。ずるずるとその場にへたりこむ那岐の、腕だけを忍人がしっかり
握りしめている。
「……俺の言葉のせいだから、言えた義理ではないが、…落ち着け、那岐」
「……、ああ、うん、……ごめん。…ありがとう」
よいしょ、と腹に力を入れ直して立ち上がる。那岐の目の色を確認してから、忍人が手を
放した。
…やっぱり赤く跡が残っている。剣を持つ忍人の手は、那岐のものよりも大きくて指が長
い。手に残るその指の形を見て、…なんだかとてもきれいだ、と那岐は思った。
……残しておければいいのに、…この形。
那岐が考え込んでいる姿を見て、忍人は静かに言った。
「大丈夫だ」
「?」
…その大丈夫が唐突すぎて、どのことを指すのかわからない。目だけで那岐が問うと、そ
の目を見つめて忍人は言葉を足す。
「姫を、狭井君のコマになどさせない。…そのために、俺たちがいる」
視線が那岐から離れた。彼の目が、彼方の海を見つめる。…その海は、千尋の瞳のような、
澄んで深い碧い色をしている。
「何があっても、…何と引き替えてでも、彼女だけは守ってみせる」
そうつぶやく彼の手は、しっかりと破魂刀を握りしめていて。
…那岐は、千尋のために彼が引き替えようとしているものを思う。
自分が何を言っても彼が聞かないとはわかっているし、…自分だってたぶん、千尋のため
なら持てる全てを差し出してしまうのだ。
そのことで、千尋を嘆かせても。…嫌われ、憎まれることになっても。
だから、那岐には忍人を止められない。
…彼が命を削る様を見るのが、どれほどつらくとも。
命がけでなら止められるかもしれないと思っても、…その那岐の命は千尋を守るためにあ
るから。……忍人を止めることは出来ないのだ。
「……」
那岐はじっと唇をかむ。
……二つとも守れればいいのに。
自分にその力があれば、…こんなに胸が痛むことはきっとない。
「……」
唐突に、忍人が短く息を吐いた。
「あまり楽しくない話になったな。…那岐、気分転換に、おもしろいものを見せようか」
「……へ」
那岐は間の抜けた声を出してしまった。
「…なに、いったい。…そういえば、どうしていきなり海岸に降りたのさ、忍人」
「思い出したからだ」
「何を」
説明が足りないよ、と頭を抱えると、忍人はすまない、とつぶやいた。
「昔、ここに来たことがある。風早や柊と」
「…へえ」
それは少し、…興味がわいてきた。
「何をしに?」
「別に。直接的には、俺が海を見たことがないと言ったのと、風早が久しぶりに貝汁が食
べたいと言ったからだが、実際は、羽張彦と柊が一ノ姫を連れてくるための下見だったよ
うだ」
那岐はぽかんと口を開けた。
「一ノ姫って、…千尋の姉さん?…ええ!?橿原宮からこんなとこまで連れてきたの!?
お姫様を!?」
「実行したようだ。同行していないから詳細は知らないが、あとでものすごいことになっ
たのは知ってる」
忍人は砂浜をすたすた歩きだした。那岐はあわててついていく。歩きながら聞く。
「…ものすごいことって」
「怒鳴られたり叱られたり責められたり」
「……ああ」
ああもう、それはもう。さもありなん。
「…羽張彦って、布都彦の兄さん?」
「知っているのか?」
「面識はないよ。でも天鳥船にいると、名前を聞く機会は多い。…どんな人?布都彦に似
てる?」
忍人の歩みが少し遅くなった。説明の言葉を考えている様子だ。
「…そうだな、まっすぐな気性は似ている。…だが、やることはサザキの方が似ているな。
…兄弟子たちの中では道臣殿に次いで古株だったが、何かやらかすのはいつも彼だった」
海に行こうと言い出すのも、姫を宮から連れ出すのも。……そして。
「……」
忍人が、口を開いて何か言いかけ、やめた。…やめたというか、飲み込んでしまった。
…それがなにか、…那岐は問わない。
「洞窟があるよ」
代わりに、目の前に見えるものを口にする。
「…ああ。…君に見せたいものはここにある。…たぶん」
「…は?」
たぶんってなんだ。
首をひねる那岐を置いて、すたすたと忍人は洞窟に入っていく。那岐もついていく。
迷いのない忍人の足取りが、ある一点でとまり、それから指で洞窟の壁を探って。
「……ああ」
ふわり、と笑んだ。
「あった」
彼の指の先をたどってみて、…那岐も苦笑した。
柊、と彫られている。
「柊でもこんな子供っぽいことするんだね」
「言い出したのは柊ではないがな」
言いながら、忍人はもう一つの名前を指さす。羽張彦、と刻んである。
「布都彦の兄さんか」
「そう。…自分の目の高さに名前を刻むと言い張って」
それからまた指が壁をたどって、……次の瞬間、忍人の顔があからさまにしかめられた。
「…何むっとしてるの」
那岐がのぞき込むと、そこには風早の名前がある。忍人はしかめ面のままぼそりと、
「…今の俺の目の高さより、風早の名の方が高いところにある…」
言った。
那岐は爆笑した。
見ると、柊の名の横に、…今の那岐から見てもかなり下の位置に、忍人の名がある。ずい
ぶん小さいときにここに来たのだな、と思うと、なんだか小さい忍人が思い出されて愛お
しい。……小さい那岐に、椎の実を採ってくれた小さい忍人。
「消えているかと思った。…意外と残っているものだな」
「岩に刻んでおいて、消えてないな、はないだろ、忍人」
「だがもう十年近く前のことだ。波に洗われて消えていてもおかしくはないと思った。…
またいつか見に来ようと言ったのに、結局それきり一度も来なかったな」
「…ふうん」
那岐は鼻を鳴らした。
「じゃあやめた」
「…?…何を」
「僕もここに名を書こうと思っていたけど、二度と見に来られないというのはなんだか縁
起が悪い」
忍人の夜の海の色の瞳に、ふと影が差した。
「……そうだな」
「…外に出ようよ、忍人。…この洞窟、行き止まりなんだろう。なんだか空気がよどんで
いる気がする」
言い置いて、那岐はさっさと洞窟を出た。忍人も静かに那岐についてくる。
外は暖かな秋の日の光で満ちていた。うーん、とのびをする那岐に忍人が追いついてくる。
「那岐」
呼ばれて振り返ると、忍人がまっすぐに那岐を見つめていた。
「君とは、守れる約束をしよう」
のびをする手が、止まった。
那岐は、顔だけでなく体ごと、忍人に向き直る。
「…たとえば?」
「…たとえば、そうだな。…霧のない筑紫を見に行く、とか」
……筑紫。……昔のことを別にすれば、初めて忍人と二人で話した地。
「白虎を解放してすぐに師君を助けに行くことになったから、筑紫にいる間ずっと霧の中
で、ろくろく景色を見ていないだろう。君も姫も」
「そりゃ、確かに…。…忍人は詳しいのか?」
ふ、とかすかに忍人は笑う。
「…まあ、それなりに。…国が滅んでから、残った軍は師君を頼ってみな高千穂や筑紫の
周辺に集まったから」
戦うばかりだったが、美しい風景を見つける機会もあった。
「君たちにもあの景色を見せたい」
「……いい案だけど」
「…何か問題でも?」
「それって、禍日神をなんとかしてからじゃないと行けないだろ。…後戻りすることにな
るから」
「無論」
その声の潔さに、那岐ははっとした。
「…そもそも、戦いが終わらなければ、景色を愛でる暇などないだろう?」
忍人は平然としている。ゆったりした微笑みがその口元に浮かんでいる。那岐の動揺に気
付いていないのか、それとも気付かぬふりをしてくれているのか。
……ああ。
胸に迫る何かを、那岐は必死で押しとどめる。
忍人は、生きる気だ。
破魂刀に、気力で負ける気はないんだ。たとえ魂を削っていても、その魂の最後のひとか
けらがあるかぎり、彼は生き抜く覚悟を決めているんだ。
それがどんなに苦しいことであろうとも。玉の緒の先を、握りしめて、離す気はない。な
らば。
僕は探し続けよう。忍人の玉の緒をこの地に、僕のいる世界に結びつけ続ける方法を。
千尋を守って、君も助ける。両方を守ることは出来ないなんてあきらめない。
僕は二つとも守る。必ず。
「…千尋も誘おうね」
「無論。…狭井君が反対したら」
「「さらっていこう」」
はからずも、声がそろった。
二人、顔を見合わせて吹き出す。
「…さあ、そろそろ行こうか」
「え、どこに?」
那岐がぽかんとして聞くと、忍人が呆れた顔で言った。
「…神邑に決まっている」
「ええ?もう行かないんじゃなかったの?」
「少し遅れるのもたくさん遅れるのも同じだ、とは言ったが、行かないとは言っていない」
「………ほんと、生真面目だよね、忍人」
その那岐の言葉は無視して、忍人はすたすたと歩き始める。しかたなく、那岐もその後ろ
をだらだらとついて歩く。
忍人の背中を見て歩きながら、思う。
……この背中を、きっと守る。
那岐の胸の上でゆれる勾玉の一つが、那岐の願いを感じ取ったかのようにふうっと熱くな
った。
……那岐はまだ、そのことに気付かない。



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