ツバクラメ

堅庭で、ぴいぴいと甲高く雛が啼く声がする。練り餌を手に庭に足を踏み入れた那岐は、
雛が那岐を待って啼いているのではなく、既に誰かから餌をもらっているのだと気付いて
目をこらした。
四阿の柱の陰に、夜空色の髪がのぞいている。
「……忍人?」
近づいて呼びかけると、将軍はくるりと首をめぐらせた。
「…那岐」
「雛の餌当番、…今日は僕だよ。…間違えた?」
「いや」
見れば、彼は別に練り餌の器を手に持っているわけではない。
「久しぶりに虫を見かけたから」
ああ。生き餌か。それで雛が喜んでいるのか。
那岐の傍らで、将軍は難しい顔をして、餌をもっととねだる雛を見ている。虫の一匹では
足りるまい、と、那岐は雛を捕まえて、自分が持ってきた練り餌を口に押し込み始めた。
「……そろそろ」
忍人は、難しい顔のままつぶやく。
「練り餌では厳しいだろうな」
那岐は、とりあえず雛が納得するまで練り餌を口につっこんでやってから、巣に戻した。
雛は確かに、ずいぶん大きくなってきた。だがまた飛び立てるような羽ではない。ひよひ
よした産毛が生えているだけだ。
「でももう、生き餌が簡単に手に入る時期じゃないだろ」
堅庭で風に吹かれていると、この頃は少し肌寒い。もしかしたら、雛を船の中にいれてや
ったほうがいいのかも、とさえ那岐は思う。夏の間、堅庭の木々で人生を謳歌していた虫
たちも、あるものは繭を作り、またある者は次代へと命を渡して姿を見なくなってしまっ
た。忍人が今日捕まえた虫というのはよほどののんき者だろう。
「……」
「……育て始めた頃からわかってただろ。…無茶な話だって」
「………確かに」
親に見捨てられたツバクラメの雛に気付いたのは、千尋よりも那岐と忍人が早かった。堅
庭で過ごす時間が長いのだから当然だったが、二人とも、雛に手を出す気はなかった。下
手に手を出しても、この雛は育たないのが自然の成り行きとわかっていたからだ。
「……でもまあ、…千尋は、ずっと動物を飼いたがっていたから」
那岐は、ほんの少し残った練り餌を棒でつつきながらつぶやく。
「異世界の橿原でも、よく野良猫を拾ってきては、風早に怒られて元の場所に戻しに行っ
てた。風早は絶対飼わせなかったんだ。…いずれ豊葦原に戻るんだから生き物の命に責任
が持てないと思っていたんだと思うし、その判断は正しいんだけど、豊葦原のことを忘れ
てしまっている千尋には、風早の態度はかなり理不尽に思えていただろう。…だから、こ
の雛を見つけたとき、千尋が育てたいと言い出したのはむべなるかなって感じだったんだ
けど」
那岐は難しい顔をした。
「……一緒にいたの、柊だったんだよね」
忍人は無言で肩をすくめる。…誰の口からその名前が出ても、将軍様の機嫌が悪くなるの
は常なので、那岐は気にしない。
「どうして、止めなかったんだろう」
「……」
忍人は、無言。無視して那岐は言葉を続ける。
「真っ先に止めそうじゃないか。およしなさい、我が君、無駄なことですとか言って」
「………」
忍人はふう、とため息をついてから。
「…姫に、ほだされたんだろう」
とだけ言った。
「そうかもしれないけどさあ…」
那岐は練り餌をつついている。
「……」
「……」
四阿で二人、黙りこくる。やがてぽつりと那岐が言った。
「……柊って、何者なの」
「……」
「なぜ、あんなふうに、何でも知っているって顔をするの。……実際、知っているみたい
だし」
忍人は、また一つため息をついて、
「……あれが口巧者だから、…君が惑わされているだけだろう」
と言った。
……ああ、ほら。…どうして。
「……那岐?」
「僕は、それも不思議だ」
眉間にしわを思い切り寄せて、那岐は忍人を見据えた。
「…?」
「あんただよ、忍人。…普段、あれだけ柊を毛嫌いしているのに、どうしていつも最後の
最後はあいつをかばうのさ」
「……」
忍人は、ぱち、ぱち、と二度ほどまばたいてからむっとした顔で、
「…誰もかばってなどいない」
と言ったが、那岐はそんな態度にはだまされない。
…だって、まばたく前、一瞬唇が震えたじゃないか。
僕が言ったことに、どきりとしたじゃないか。
風早もそうだ。戦おうとしたこともあるのに、結局は柊を許して、かばって。…僕が柊の
ことを聞こうとすると、笑顔の煙幕で煙にまいて。
幼友達だから、兄弟弟子だから。僕が知らないこと、他の仲間が知らないこと、きっと風
早と忍人は知っている。
「……忍人は、…柊の何を知っているの」
「……」
忍人は答えない。答えないと那岐もわかっている。
「僕たちから、柊の何を隠しているの」
「……」
答えない。夜の海の色をした瞳からは、何の表情も読み取れない。風早に比べてとても無
器用な忍人。嘘をつけないから、沈黙で答える。瞳も、声も、何も語らない。
「……」
那岐もため息をついてみた。
どのみち、忍人から柊のことを聞き出せると思って、こんな話を仕掛けた訳じゃない。
…僕はただ。
「…千尋が不幸にさえならなければ、…それでいいんだ」
僕は千尋が好きだけど、千尋が好きなのは柊みたいだから。
「柊が本当はどんな奴でも、千尋をちゃんと幸せにしてくれるなら、それでいいんだ」
ずっと黙りこくっていた忍人が、やっと口を開いた。
「……あれが、姫を不幸にするようなら、俺と風早もただではおかない」
「……だよね」
忍人も、千尋のことが好きなんだよね、と、声には出さずに那岐は思う。……だから、忍
人が柊のことで口をつぐむ内容が、千尋の不幸にはつながらないはずと那岐は信じる。
自分には結構心を開いてくれたように見える忍人が、柊のことだけはどうしても口を開か
ないのは、少し気に入らないけれど。
「……ただ」
那岐が嫉妬にも似た感情を心の中でくゆらせていると、ぽつりと忍人から口を開いた。
「ツバクラメのことでは、…柊は姫を泣かせるかもしれないな」
「………。…そうだね」
わかっていたことなのだ。さだまっていたことなのだ。…この雛は生きられない。
なのになぜ、『柊が』それを許したのか。
……どうしてそのことがこんなに気になるのか、…那岐にもわからない。
「…とはいえ、今日はもう餌に満足したようだし、巣の中も、あれが凍えて死ぬほど寒く
はない。…君はもう、中に入れ。体が冷えるぞ」
その言い方がなんだか師匠か風早のように保護者気取りで那岐は少しむっとする。
そりゃ確かに忍人の方が年上だけれど、4つしか違わないのだ。背だって4〜5センチし
か変わらない。那岐は自分の背はまだもう少し伸びると思う。そのうち追い越してやるぞ、
とか思っているのだ。
「…今日はもう少し、風に吹かれたい気分なんだ」
「……体をこわすぞ」
「忍人に言われたくないよ。…最近時々、ごほごほ咳してるくせに」
指摘すると、忍人の目からまた表情が消えた。……那岐に、知られたくない事実なのだ。
…ああ、ほんと、将軍様は正直すぎていやになる。
…あの、嫌な咳。あの咳のことを忍人に問いただしてみたいと思う。…けれどきっと答え
てくれずに黙り込むだけなのだろうな、とも思う。
だから、那岐は違うことを聞いた。
「…忍人は中に入らないの」
「今日はもう少し、空を見ていたい気分なんだ」
さっき那岐が言ったことと似たようなことを言って、忍人は空を見上げて那岐から目をそ
らす。
「じゃあ、僕も」
そう言って、那岐はとん、と忍人の背中に自分の背中をもたせかけた。…彼の負担にはな
らないよう、重みはかけない。…ぬくもりだけ、伝わればいい。
二人の周りを吹いていく風には、ふかふか積もった落ち葉のにおいが混じっている。
秋が更け、冬の気配はもうそこまで近づいてきている。
終わりのにおいがする、と、ふと思った。


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